三年生になると途端に慌しくなった。
それは心情的なものが大いに関係していたこともあるけど、実際にもそれなりに忙しくて慌しかった。
高校へと進学するのであれば受験が必要不可欠になる。そのためには勉学を励まないといけない。 今まではぼんやりしていても自動的に進学することが出来ていたが、次はそうはいかない。
 高校進学という初めての人生の選択を前にして私は焦燥を感じていた。
高校はどこに進学するのか、その問題に真っ向から向き合わなければいけなくなってから私が一番に考えたのは涼太くんのことだった。
涼太くんは一体どこの学校に進学するつもりなのか。
出来ることなら涼太くんと同じ高校へ進学したくないと思ったからだ。この間のような面倒で惨めな出来事に巻き込まれるのは嫌だった。 自衛の術があるとすれば、短絡的かもしれないが涼太くんと離れるということだと思ったのだ。私と涼太くんの間に繋がりがあることを知らない人が居るところへ行く。 それが手っ取り早くて確実なやり方だ。
だけど本人にどこの高校に行くつもりなのか尋ねることは出来ない。
けれどきっと涼太くんのことだから女の子達がその答えを持ってきてくれるだろうと考えていた私の予想は裏切られることはなかった。 昼休みの教室内でいつものメンバーで談笑をしていたときに、後ろに居たグループの女の子達が涼太くんを話題の中心として選び、 ほどなく涼太くんは神奈川の海常高校というところに進学するらしい、ということを聞いた。
耳慣れないその学校を涼太くんが選んでくれたことに私は安堵した。
私の志望校を変える必要がなくなったからだ。


 それからの日々は本当に早く過ぎていった。
 勉強付けの毎日から開放されたのは、季節が冬から春へと移り変わる頃だった。

「引越し用のトラック来てるけど涼太くん今日行くのかしら」
「...さあ」

 この空いた期間は春休みと呼ぶのも少しおかしな気がする。休むべき学校へはまだ通っていないのだから。 それでも中学を卒業し、高校へと入学するまでの僅かな空白期間を私は歓迎していた。
遅い朝食としてイチゴジャムをたっぷり塗った食パンに噛り付いていたときに母が二階から降りてきてそう言った。 それに私は興味のない素振りで答えた。両手でパンを持ち、ただただ咀嚼する。

「あんたたち離れるのって初めてじゃない?」

 母はその事実を口にしてから驚いているようだった。「幼稚園の頃から一緒だったもんねー」と、続けて話す。
 そうして私も物心ついたときにはすでに涼太くんが隣に居たのだということを思い出した。 とは言っても、ここ最近はほとんど会話をしていないのだけど。残り二口ほどになったそれを前に大きく開いていた口から声を発する。

「そだね」

 軽くそれだけを答えれば「寂しいとかないの?」と少し不満げな声が責めるような、それでいて失望したような声音で問いかけられる。 私はこの楽しいとは言えない会話に途端に居心地の悪さを覚えて、残り二口のパンを口に無理やり詰め込んだ。 母と涼太くんのお母さんは、私たちに仲の良い兄妹のような幼馴染で居て欲しいと思っているようだった。 だけど私たちは成長している。いつまで幼いままではいられない。現に今私たちはほとんど絶好状態と言っても過言ではない。 その現状を作り出したのは間違いなく自分なので、逃げるように自分の部屋に帰った。母の問いには答えなかった。


 引越し用のトラックが行ってしまったのを見計らってから私は家を出た。もともと今日は買い物に出かける予定だったのだ。 歩いて涼太くんの家の前に立つと、自然と足が動かなくなった。
これで涼太くんともそう会うことがなくなった。煩わしさから開放されたという思いと少しばかり寂しいという感情を覚えている自分に少しばかり驚いた。 私たちはべったりした関係の幼馴染と言うわけではなかった。だけど今まで、つかず離れずの距離を保ってきたのだ。 ここでちょうど涼太くんとばったり会うことも無くなってしまったのだと、黄瀬家の玄関を眺めているとちょうどそのドアが開いた。 そうしてドアの向こうに居たのは涼太くんだった。

「あ、」

 思わず漏れた声にバツの悪さを覚え、私は咄嗟に俯いた。
間もなくドアが閉じた音がしたので涼太くんはまた家の中に引っ込んだのだと勝手に思った。
そのことに安堵して、少しだけ胸が痛い。こういう状況を作ったくせに随分と都合がいい。

「...久しぶり」

 続いて足音と共に声が聞こえ、私は思わず顔を上げた。
長い足であっという間に私の前までやって来た涼太くんがなんとも言えない表情で立っている。

「久しぶり...」

 ほとんど反射的に同じ言葉を返して、私はぎこちなく笑った。
 今更になって少しだけ自分の行動を後悔していた。何度か涼太くんから向けられる視線に、私は応えなかった。
意地になっていたというのもある。同時に今まで味あわされた涼太くん関係の嫌な出来事を思い、いい気味だとも思っていた。 私が少し無視をするくらいではチャラになんてならないことを涼太くんのことを好きな女の子たちにはされてきた。
涼太くんに恋をしている女の子たちは必死で、少しでも恋路を邪魔すると彼女達が判断すれば容赦なく切りつける。 中にはひっそりと涼太くんを好きだった子もいるはずなのに、そういう女の子たちよりも目立つほうに目がいってしまう。 そうして私は何度もそういう子たちに嫌な目にあわされたのだ。
そうやって自分の正当性を言い聞かせないと胸が苦しい。

「あ、オレ引っ越すんス。神奈川に」

 ぎこちない言葉は、少し私の様子を伺っているようだった。
涼太くんにしては珍しい。私に対してはほとんど使われない探るような視線。 同時に言葉も考えてから発しているかのような雰囲気がある。私と会話することに対しての少しばかりの緊張感を肌で感じる。 そういう類の気遣いを涼太くんからされるのはひどく珍しくて、だから私も少しうろたえるような反応をしてしまった。

「あ、うん。引越しのトラック来てたね」
「学校神奈川だから」

 私が普通に答えたことによって、少しだけ表情を緩めたことが見て取れた。声も先ほどに比べれば弾んでいるようだった。 そして当然の流れのように期待した目が私を見つめる。
だけど私はその目は見ると、どういうことなのか途端に先ほどまでの後悔を忘れた。

「頑張ってね」

 涼太くんが何を期待しているのかわかってしまったから、急に気持ちが冷めてしまった。
都合のいい展開を期待している。だけど全てを私に託そうとしている。
自らは動くことはなくプライドは守ったまま、私が後悔して過ちを正すのを待っているのだと気づいた。
そのやり方はずるい。
今まではそうやって私は涼太くんが望むままに動いていたのだろう。お膳立てされ、予め決められている台詞と行動をなぞってきた。 それで上手くいくのならいいと思っていたからだ。私が折れて妥協をすれば。
だけど今回はそうはいかない。私には妥協をするという選択肢はなかった。
だから何を望まれているのかわかっていながらも涼太くんに背を向けた。
 梅が綻び始めた季節に涼太くんは引っ越していった。






(20160427)