さん?」

 突然名前を呼ばれて思わずびくりと肩が跳ねる。それを恥ずかしいなんて思う余裕もなく、慌てて振り返れば見知った姿を見つけた。

「高尾くん」

 するりと口から零れた名前は緑間くんがよく呼んでいるもので、私はまだ口にしたことが無かった。
緑間くんとの接触は度々あるけれど、高尾くんは緑間くんと一緒に居るときしか会話をすることも無い。 時々廊下などで顔を合わせたときには挨拶をしてくれるのでこちらも返していたが、そこから会話へと発展したところは今のところ無い。

「あ、俺の名前覚えててくれたんだ」

 小走りでやって来た高尾くんは私の隣で足を止めると人懐こい笑みを浮かべながらそう言った。 私はそれに同じように笑い返しながら「覚えてるよ」と軽く答える。
そうして彼の格好へと改めて視線を移す。 オレンジ色のジャージはあまり見慣れないものなので、一拍遅れてバスケ部のものだと察することが出来た。

「...えっと、部活終わり?」

 思いがけないところで思いがけない人と会ってしまったので、少し言葉はぎこちないものになってしまった。
そもそもそこまで会話をしたことが無い人なのだからしょうがない...と、思う。 元々お世辞にも社交的とは言えないので、初対面に近い人と話をするのは少し緊張してしまう。
 探るような会話の切欠に、何を思ったのか高尾くんは面白そうに一度笑ってから頷く。

「そっ、さっき終わって帰るとこ」
「そうなんだ、お疲れさま」
さんは? 何かかわいい格好して...デートとか?」
「え?」

 思いがけない言葉だった。さっきから驚いてばかりかもしれないが、それくらい高尾くんの言葉は信じられないものだった。
思わず自嘲するような半笑いが口元に浮かびそうになるのを抑える。ここで”何言ってんのこの人”なんて態度を出すのはあまりにも失礼だという判断をどうにか下すことが出来たからだ。

「そんな相手いないし、普通に友達との遊びの帰りだよ」
「そっか」

 どうやら嫌味っぽい返答はせずに済んだらしい。

「今帰りなら一緒に帰ろうよ」

 またしても思いがけない出来事に、私は目をぱちぱちと意味もなく瞬きを繰り返した。

「あ、何か用事でもあった?」
「...う、ううん、ない。......から、帰りましょう...」
「ブハッ、帰りましょうって何?」

 こうやって男の子に一緒に帰ろうなんて声をかけられた経験がないので、ぎこちなくなってしまった返事はすぐさま高尾くんにからかわれた。 じんわりと頬が熱くなるが、別にからかわれるのが嫌なわけじゃない。
何だか妙なことになってしまったな。と、思いながらも先ほどまで一人で辿っていた家路を高尾くんと二人でおしゃべりしながら歩いた。 それは思いがけない出来事ではあったけれど、存外楽しいものだった。



「...?」

 男の人に名前を呼ばれることはあまりない。それこそ家族と...他にもう一人だけ。
声の聞こえた方に顔を向ければ、そのもう一人が立っていた。瞬間、楽しかった気持ちが萎んだ...いや、名前を呼ばれた時点で雰囲気は壊されたも同然だった。
ずんずんと荒い足取りでこちらへと近寄ってきた涼太くんの表情はどう見ても不機嫌だった。
先ほど名前を呼ばれたときにも普段よりも低い声だったことを思い出せば、彼の虫の居所が悪いことが窺い知れる。
だが今はそんなことよりも気になることがある。

「何でいるの?」

 単純にこんなところに涼太くんが居たということに驚いて尋ねたというのに、涼太くんの表情が一瞬だけ曇った。
険のある言葉を投げたつもりじゃない...そんなつもりじゃなかった。咄嗟に罪悪感を覚えて取り繕おうと思うもののなんと言えばいいのかわからない。 私が一人で焦っている間に涼太くんは距離を縮めてきて、私のすぐ隣に立った。
腕が触れるくらいの距離に近すぎるのではないかと横に少し移動するが見咎めるような視線を送られ、またしても涼太くんが距離を詰めてきた。 そうなると昔の私が現れてそれ以上抵抗する気力がなくなってしまった。

「こんちは。あ、もうこんばんは、かー」

 この雰囲気に似つかわしくない明るい声に、そういえば彼が居たのだということを思い出した。突然の涼太くんの出現に忘れてしまっていた。

「...あぁ...こんばんは」

 明るい高尾くんに対して涼太くんの声は低い。ここは空気を読んでいつものように明るく振舞うべきだろうに...。 愛想の悪い涼太くんに内心冷や汗をかく。そうしてどうにかこの場を繕うべく声を出した。

「えっと、黄瀬涼太くんって言って...」
「幼馴染なんだっけ?」

 私の言葉を継ぐようにしてかけられた言葉が今まさに口にしようとしていたものなので驚く。が、すぐに緑間くんから話を聞いたのだろうと腑に落ちた。
だけど涼太くんはもちろんそうもいかない。何故かとても驚いたような表情でこちらを見られたのでびくりと体が震えた。 次いで非難がましい視線を送られれば理由はわからないものの体が縮こまるような感覚を覚える。
この件に関しては何も悪いことをしていないつもりだ。それなのに何故そんな目で見られなければいけないのか...。すぐに不満が胸が沸き起こった。 私たちのこの微妙な空気を察してくれたのか、この雰囲気には似つかわしくはないものの高尾くんの声はますます明るい。

「一応バスケやってるんで、キセキの世代のことはとーぜん...。あっ、俺も自己紹介とかしといたほうがいい?」
「いや、いいっス。に聞くんで」
「えっ、」

 私としては涼太くんに高尾くんのことを紹介するつもりなんてなかったので、考えるよりも先に口から声が出た。 そうすると先ほどから何度か聞いた吹き出すような音をたてて高尾くんが笑った。
隣の涼太くんからはこれ以上ないってくらいの鋭い視線が送られてくる。怒気を孕んだそれに咄嗟に胸がきゅっと縮まって萎縮したように感じるのは気のせいではないと思う...。

「じゃ、俺ら行くんで」
「え、ちょっと」

 場違いともいえる高尾くんの笑い声を切り裂くような冷たい涼太くんの声を耳が捉えたところで背中を強引に押される。
もちろん背中を押しているのは涼太くんだ。抵抗するために背中に当てられた手から逃れようと身を捩ったが肩をぐっと掴まれた。 何故こんなにも強引なのか...怒りよりも戸惑いが勝り、思わず涼太くんを見上げる。
そうすると色を映さない瞳と、何の感情も悟らせない表情が斜め上にあった。視線に気づいているだろうにこちらを決してみようとせずに真っ直ぐ前を見ている。

「...あー、じゃあまた明日学校で」
「う、うん。ごめん、また!」

 高尾くんに手を振ると、肩を掴む手が強く前に押してくるのでしょうがなく足を進めた。
一緒に帰ると言ったところでこういうことになってしまったのは申し訳ないが、涼太くんがこの場から去ってくれるとは思わない。 だからと言って三人で帰るというのも先ほどのおかしな雰囲気を思い出せば得策とはいえない。
何故こんな強引な行動を取るのかわからずに視線で問いかけるが、相変わらず視線が交わることはなかった。






(20170108)