「ごめん、ハチ」

井戸から水を汲むために動かしていた手の動きを止め後ろに首を捻れば、が泥だらけの格好で俯いていた。 その姿だけでも哀愁が漂ってくる。

「謝られるような事されてないけど」

思った以上にツンケンした冷たい声が発せられて自分でも驚いた。
今日の二人で組んで行う実習で俺たちは後一歩という所で失格になった。が足を下ろした所にちょうど蛸壺が仕掛け られていたらしく着地することなくは穴の中へ落ちていった、俺は咄嗟に手を伸ばしの腕を掴む事に成功したの だが足場が悪く、そのまま俺も穴の中にまっさかさまに落ちる事になった。 よって今、俺との格好は泥だらけだ。その上空腹だ。
だけの所為じゃなくて二人で一組になっていたのだ、連帯責任というやつで一人勝手に責任を感じて謝ってくる に腹がたった、それを言うなら俺だって間抜けに足を滑らせ穴の中に落ちたのだ。

「キャー! ハチったら男前」

さっきまでの俺たちの間に漂っていた良くない空気を取り払うようにがわざとらしく高い声を上げて抱きつきに来た。 その突拍子もない行動に驚いて手の中の縄を離してしまった。からからと音を鳴らせて紐が下に落ちていき水面を叩く音 がした。「あ」二人揃って間抜けな声を出す。

!」
「ごめんごめん」
「昼飯食いっぱぐれたら部屋に置いてるお菓子くれよ」
「えぇー」
「お前のせいでまたやり直しだろが」
「ハイ! 口を動かすより手を動かして!」
「お前、決定......一番大事にしてる金平糖、あれ貰うわ」
「えぇ! 無理!」
「ちみちみ食べられるより金平糖も早く食べて欲しいって言ってた」
「嘘つき! あれは、あぁやって大事に食べるもんなんだよ!」

鼻息荒く言い返してくる程にが大事にしている金平糖を思い出すと、自然その送り主である人の顔が思い浮かんだ。 「利吉さんがお土産にくれたんだ!」そういって頬に赤みを差した顔で心底嬉しそうにまるで氷のように透明な容器を 抱えていた姿を思い出す。その日から金平糖はにとって宝物になった。
食べるだけじゃなくその容器を日に透かしてみたり、ただ眺めてみたりとして顔を綻ばせている。 もちろん金平糖が好きだと言うのもあるのだろうが、それよりも利吉さんに貰った。ということであれだけ大事にして いうんじゃないのかと思ってしまう。嬉しそうに金平糖を眺めている姿は、傍目にも微笑ましいものなのにどこか胸の奥 がざわざわと落ち着かない心地になる。また水を汲み上げるべく手を動かしながら、を横目で見ると何か考えるよう に難しい顔をしていた。本当に金平糖を取ろうだなんて思ってないのに。零れそうになる笑いをかみ殺す。

「...饅頭ならいいよ」
「マジでくれんの?」
「そのかわり金平糖はあげないから!」

断固として金平糖は渡さないという意思表示なのか、ふんっ!という鼻息付きでが断言した。それに苦笑し分かった、 分かった。と答えながらやっと手に入った水の入った桶を持つ。

「ほら、かけるぞ」
「こいやー!」

下を向いた泥だらけのの頭の上に水をかける。それを頭を洗う要領でが徐々に泥を落としていく。
頭どころか体中泥だらけな俺たちは風呂に入るにしても先に出来るだけ泥を落とさなくてはいけないと思い、ここに来た。 装束を洗わなければいけない事を思うと、溜息をつきたくなった。泥って落ちにくいんだよな。
だいぶ重みの無くなった桶の中身を逆さにしてかけてやる。ぶるぶると体を振って水気を飛ばす姿は犬にそっくりだ。

「取れた?」
「結構取れたんじゃないか?」

さっきよりはだいぶきれいになった姿に頷きながら頬についた泥を拭ってやる。それを確認するようにがもう一度 そこに手を伸ばした。そして手に何もついていないのを確認してから俺の手にあった桶を持っていく。「交代」そう言い ながら桶をまた井戸の底に放り投げた。遠い所で水面を叩く音がした。






「ハチ、先に入って」
「いいよ、お前が入れ」
「いや、ハチが」
「いや、が」
「...」
「...」

このままバカみたいに睨みあったまま時間を潰すのはアホらしいと思い。無理やり脱衣所にを押し込む。当然、力で 俺に勝てるはずが無いは躓きそうになりながら中に入った。素早く扉を閉め、開けるのを阻止すれば諦めたように中 で「じゃあ、先に入らせてもらうよ」と言う声が聞こえた。「おぅ」と返すと暫くしてもう一つ中の扉が閉まった音がし た。


は体に大きな火傷の傷があるらしい。らしい、と言うのは俺たちの誰一人としてその姿を見たことがないからだ。 本人が、火傷があって見られたくないと言い張り絶対に誰とも風呂に入ろうとしない。それどころか日頃からその体 を隠すためにさらしを巻くという徹底振りだ。
何故そんな傷を負う事になったのだろう。その当時、幼いながらにそこには触れてはいけないんじゃないか、と感じ取った 俺たちは誰一人それを口にしなかった。それでもがその空気を敏感に感じ取ったのだろう、下を向きぽつり。
「その、雷のせいで...」
それからは誰もその事には触れなくなった。


そんな事をつらつらと考えていると、名を呼ばれたので視線を上げるとが不思議そうにこちらを見ていた。いつもは 高い位置で一つに結われている長い髪がそのままで、先から水を滴らせている。頬は上気したように赤みを差し、いつも よりも緩められた合わせ目から鎖骨が見えている、だがその下にはしっかりとさらしが巻いてあった。






二人とも風呂から上がり、だめもとで食堂へと行ってみたがやはり中はがらんとしていた。これでおばちゃんがいればま だ何か作ってくれえるかもしれないのだが生憎と出かけたようで居なかった。
は昼飯を食いっぱぐれたときは...という約束を覚えていたらしい。しょうがないから私の饅頭あげるよ。という言葉 に甘えの部屋へと行くことになった。の部屋には同室の者というのがいない。忍たまになると決まった時にちょう ど偶数の人数だったので部屋が無かったのだ。だからそれからはは一人で部屋を使っている。
中に入ると饅頭を隠していたらしく戸棚の中から箱を出してきた。ぱか、と開けたそこには饅頭が並んでいた。 それを紙の上に乗せ俺に渡してくる。

「ん」
「おぉ! ありがとう」

その時、俺の中の腹の虫が限界を超えたらしい豪快な音が腹から聞こえた。決まり悪くなって誤魔化すように笑えば、雪 美がにやりとからかいを含んだ笑みを浮かべた。

「ハチはしょうがないなー」

突然聞こえてきた第三者の声に振り向けばいつの間に現れたのか兵助が両手を受け皿のような形にして立っていた。その目はじっとが持って いる饅頭の箱に向けられている。そしてその後ろには同じようにして雷蔵と三郎が並んでいた。
は饅頭を隠すように体の陰に移動させようとしたが、その間もずっと兵助がそれを目で追っているので根負けしたら しい。
「...別に配給しようとしてるんじゃないのに」
ぶつぶつと文句ありげに饅頭を渡すに三郎が「同じだろう。後輩にやるのが俺たちに代わっただけだ」と偉そうな 口を効いたものだからの怒りを買っていた。

「お前にやるのと、後輩にあげるんじゃ全然違うんだよ!」
「同じだろうが」
「違うね! お前みたいな偉そうな態度は取らないで、弾けるような笑顔で『先輩っ! ありがとうございますっ!』これだよっ!」
「『先輩っ! ありがとうございますっ!』」
「きもちわるいっ!」

吐き捨てるように言葉を投げつけているを横目に俺は食堂に行ったついでにと持ってきていたお茶の用意を始めた。 だが二人分しか湯呑みは持ってこなかったので三人分足りない。取って来ようかと思い立ち上がろうとすると、気づいた らしい雷蔵が一足先に笑って手を挙げ部屋を出て行った。まだ言い争いを続ける二人に呆れて溜息を零すと予想以上に重い ものがでた。今日は朝から忙しかったしな、と思っていると隣に居た兵助が「溜息つくと幸せが逃げるらしいよ」と言い ながら湯呑みにお茶を淹れ飲んだ。

「おい」





(20100118)