「...どうしたんだ伊作」


戸惑いの滲む声が背後から投げかけられた。振り返ると怪訝と心配とを混ぜ合わせたような表情をした留三郎が立って いた。風呂上りなのだろう、髪からぽたぽたと雫をたらしている。

「...あ、おかえり」
「あぁ、ただいま」
「...」
「...」
「...」
「...なんかあったのか」



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今日の昼過ぎの事だった。授業が終わりいつもと同じように保健室へと歩みを進めた。目的地の保健室へとたどり着いた 時、扉の前で新野先生が待ちかまえていたかのように声を上げて早口に自分が今から四年生の実習に着いて行かなければ いけないので僕に留守を任せてもいいかと言った。僕は今までも何度かあったことなので躊躇せずに二つ返事で 引き受けた。それから新野先生を見送り、保健室の中で前日やりかけにしてあった薬棚の整理をしたのだ。
そろそろ休憩にしよう、とあらかた片付いた薬棚を見ていたら控えめに三度戸を叩く音が聞こえた。それにどこか怪我を 負った忍たまだろうと当たりをつけて返事をすればスッと襖が静かに開けられた。

「失礼します」

入ってきたのは自分よりも一つ年が下の五年生、だった。
真っ直ぐに座っている僕へと視線を落とし、すぐにそ れは外され部屋の中をぐるりと見回す。そこで彼の表情には落胆が浮かぶ。前にもまったく同じ事があったと思い、次に 彼が口にする言葉を予想する。
たしか、前に彼は...

「すみません。新野先生はどこに?」

あぁ、そうだった。前も彼はこう言ったのだ。

「四年生の実習に同行されたから今は留守だよ」
「そうですか...」

はっきりと落胆の感情を浮かべ彼は眉を寄せた。そこで彼の顔色が青白く血の気が引いた色をしている事に気づいた。 明らかに具合が悪そうだ。この後の展開は想像がつくがそれでもだめもとで言ってみる事にする。

「僕でよければ診るけれど」
「ありがとうございます。けれどまた出直してきます」

その場で一礼して彼は保健室を出て行った。何度目になるか分からない全く同じやり取りに溜息を零す。



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「...どう思う?」

沈んだ声で尋ねると留三郎はぶっきらぼうに「何が」とだけ返した。早く眠りたいのだが僕が相談するものだから眠れな いのだ。解っているけれどこれは(僕にとって)重要な問題なんだ!瞼が重いのか半目になっていて、そのせいでいつも 以上に留三郎の目つきは悪い。

「き、嫌われてると思う?」

自分で言って気分が滅入る。嫌われているにしても心当たりが全くと言っていいほどにないのだ。それとも己の 気づかない所で嫌われるような事をしてしまったのだろうか。いくら考えても負の考えしか頭に浮かばない。

「はぁ?なんでそうなるんだよ。は新野先生に用事があったんだろ?」
「けど、もう何回もだよ?今日みたいな事があったの」
「何回も?」
「そう。一回や二回どころじゃないよ。保健室にいるのが僕だと分かった途端! 帰るんだ...」
「伊作には分からないって思ったんじゃないのか? それか、ほら、あいつ、あー 体に火傷負ってるらしいし」
「うん...」
「見られたくなかったって事もあるだろ?」

だから別にはお前の事嫌ってないって!
一人それらしい結論を付けて留三郎は布団に潜った。これ以上話し合うつもりはないという意思表示なのか顔が見えない ように向こうをむいてしまった。じっとまだ湿りをおびた留三郎の髪を見る。だが、暫くすると小さな寝息が聞こえてき た。あっという間に寝入ってしまったので疲れていたのだろう。悪い事をしたと反省する。
それから自分も眠る事にしようと火を吹き消し布団の中に潜り込んだ。
留三郎の結論には違和感を覚える、そもそも青白くて顔色が悪いのと火傷は関係あるのか?良くない方に思考が傾いてい くのを感じ、慌てて頭を振る。そうだ、留三郎の言った通りに決まってる。無理やり納得させ目を閉じた。



次の日、朝起きてすぐにそういえば昨日作った丸薬を乾かすために放ったらかしにしていた事を思い出した。
朝食の前に片付けに行こうと、その旨を留三郎に言えば「食べてからでもいいんじゃないか?」と返ってきたが、後回し にするのは嫌だったので先に食堂に行っておいて。と言い残し自室を出た。

朝早くに保健室に来た事を新野先生は驚いているようだったけれど、理由を言えば快く中に入れてくれた。
昨日置きっ放しにしていたままに丸薬は置いてあった。それを薬棚の中へと直しながら、何故こんなミスをしてしまった のかと自答自問してみる、すると今も胸に引っかかっている一人の人物がぼんやりと思い浮かぶ。
その時だ、戸を三度叩く音が保健室に響く。はっとして振り返ればが立っていた。 まさに昨日と、いや、昨日だけじゃない、全く同じ光景である。三度戸を叩く音がするとというのがすでに頭に 刷り込まれているように思った。

「失礼します」
「おや、くん」

新野先生が驚いたように声を上げる。それを聞きながら目は今入ってきた彼から逸らせない。やはり昨日と同じように 顔色が悪く、具合が悪そうだ。

「おはようございます、善法寺先輩」
「おはよう」

新野先生を見ていた目が一瞬、僕を写す。軽くお辞儀をして挨拶した彼は足早に奥の方に居る新野先生へと歩いていった。 今までになかったパターンだ。いつも留守だった新野先生が今日はいるのだから。

「新野先生...」
「はい、はい。ちょっと待ってくださいね」
「はい」
「どうです、薬は効いてますか?」

手元の薬を片付けながらも意識は後ろの二人の会話へと集中していると、視線が背中に刺さるのを感じた。新野先生の 質問に答えるのを躊躇しているのだろう。僕の存在が邪魔なのだ。話の内容を知られたくないらしい。
けれどその視線には気づかないふりをして手元に視線を落とし、たいして時間がかからない作業を時間を稼ぐために ゆっくりと手を動かす。

「...よく効いてます」
「それはよかった」
「新野先生のお陰です」

ははは、と新野先生は軽く笑い声を上げてから薬を探しているのか薬を包んでいる紙がかさかさと音を鳴らしている。

「私は昨日留守にしていたのですが、もしかすると昨日尋ねてきてくれましたか」
「あ、はい」
「それは、悪かったね」
「いえ」
「伊作くん、そこの湯呑みを取ってください。」

聞き耳をたてていたことがばれたのかと思いびくりと体が反応してしまう。後ろめたさを隠し慌てて近くにあった湯呑み を手に取り、新野先生へと渡す。「ありがとう」と言ってから先生はそこに水を注ぎいれる。
薬缶からちょろちょろと流し入れられる水を見てから、薬を探すとすでにくんの手の中にあった。一体なんの薬なのだろう。 と考えてみる。保健委員長として昨日のように留守を任されたりするからには、新野先生は僕のことを評価してくれてい ると思うのだけれど、僕にも扱えないような危険な薬なのだろうか。

くん」
「ありがとうございます」

新野先生から湯呑みを受け取りくんは、ちらりと僕を伺うように見上げてから薬の紙を広げ、口の中に放り込んだ。 瞬間くんの、顔が歪んだ。まずかったのだろうと、それを微笑ましく思いながら見ていると水の入った湯呑みをぐ いっと勢いよくあおる。じっと見つめているとくんが恥ずかしそうに僕から視線を外した。
薄っすらと紅くなった頬に笑いをかみ殺す。

「それでですね、伊作くんに頼みたい事があるのですが」

改まったように新野先生が言う物だからすっと背筋を伸ばす。よっぽどの事なのだろうかと身構えていると「そう身構えな いでください」と先生が苦笑する。それに僕が姿勢を楽にするのを見てから先生は口を開く。

「なに、くんに薬を渡してくれるだけでいいから」
「新野先生?!」
「昨日のような事になると困るでしょう?」
「...ですけど」

眉を下げて申し訳なさそうに僕の方を見て遠慮気味にくんが口を開く。

「別に、一日ぐらい我慢できます。大丈夫です」

どうしても僕には薬の中身を知られたくないらしい。信用されてないな、と思うと少し胸が痛む。苦笑いを浮かべると くんが気まずそうに頬をかいた。

「前にも言ったでしょう。無理に我慢する必要はありません。それに私が留守にするのは一日とは限りませんよ?」
「...」
「伊作くんは信用できる子です。私が保証します」
「...善法寺先輩のことを信用してないとかじゃないんです」

新野先生の言葉に悪い事を言ったと思ったのかくんは下唇を噛んで反論する。その顔が今にも泣き出してしまいそう で慌てて新野先生に視線を送るが先生は緩く首を振った。

「私が留守にしていて薬を渡せないというのは今までに何度もあったでしょう。一度や二度ではなく」
「はい」
「心配なんです。私だけではないですよ。くんにはそれが誰かなんて言わなくても解ると思いますが」
「...はい」
「心配を掛けないためにも。分かりましたね?」

渋々と言った感じだがくんは頷いた。それを確認してから新野先生はくんの頭を優しく撫でる。 あまりくんのことは知らないけれど、もっと穏やかで大人びた子なのだと思っていた。こうやって新野先生に反論し たりする子だとは思わなかった。

「善法寺先輩」
「え、はい!」

完全に傍観者の立場になっていたものだから、まさか僕に話しかけられるとは思わなかった。びっくりして 意味も無く大きな声を出してしまった。

「さっきはすみませんでした。あの、さっきの話お願いしてもいいですか?」

不安げに眉を下げている姿は子犬を思い出させる。もし耳としっぽがあったのなら確実に垂れ下がっているだろう。 あぁ、なんだか仙蔵が嬉々としてくんを苛めているのを少し理解できてしまった。

「もちろんだよ」





(20100123)