下腹部に広がる痛みに眉を寄せながら一月程前の保健室での出来事を思い出す。 朝、痛みで目が覚めると予想通り寝巻きが少し赤に染まってしまっていた。 だから女は嫌なんだ。 声には出さずに口の中で呟く。まだ空が暗いのを確認してから着替え、寝巻きを洗うために部屋を出る。その時も誰かが 起きてきてはまずいので気配を消して歩く。ようやく洗い終え白み始めた空に舌打ちしたいのを堪え部屋に戻る。 あぁ、憂鬱だ。 いつまで経ってもこの痛みには慣れる事が出来ない。本当は布団の中で一日ごろごろとしていたかったのだが、そういう わけにもいかないので、布団を片付けていると、部屋の戸が開いた。 「腹減ったー」 「おはよー」 身支度も終えたらしい、いつもの面子が戸の前に立っている。まだ眠いらしい雷蔵は目を擦っている。 「おはよう」 気分が悪いのを悟られないよう顔に笑みを貼り付ける。朝からお腹をすかせているらしいハチは早く食堂に行きたそうだ。 そんなハチとは反対に私はお腹が減っていないので食堂に行くのが面倒に感じる。戸を閉め食堂へと近づくと喧騒が聞こえ てきた。朝からみんな元気だなー。といつもなら自分もその元気な中に入っているだろうに客観的な感想を抱きながら、 騒がしい食堂の中を覗く。色とりどりの頭巾が列を作っているのでその後ろに私たちも並ぶ。 「座学めんどくさっ」 「なんで? 楽だろ?」 「兵助は楽かもだけどな! 俺と三郎にとっては苦痛なんだよ」 「はぁ? ハチと一緒にすんな」 「おまっ、なに? ちょっと感じ悪くない? なぁ、雷蔵」 「そうだねー」 「雷蔵! ハチの味方する気か?!」 「別に味方って訳じゃないよ」 「なぁ、あれ卵豆腐じゃない?!」 やかましく騒いでいる中に入る気にはなれず一歩離れて傍観する。うるさい食堂の中でも一際目立っている気がする。 いつもこんなにうるさいのか、これからは気をつけよう。と一つ頷く。だが、前にも同じ事を考えたような気がしな いでもない。完全に輪から外れてボーっとしていると騒いでいる集団から雷蔵が出てきて私の隣に並ぶ。 視線だけを雷蔵に向けると困ったような顔をしている。 「どうしたの」 「それはだよ」 「私? 私はなんともないけど?」 笑って見せると雷蔵はうさんくさい物でも見るかのように私を見た。いつもなら完璧に笑顔を貼り付けることが出来ると いうのに腹の痛みのせいか今日は不調のようだ。苦笑するが雷蔵は私から目を逸らさない。 「...ちょっと調子が悪いみたいなんだ。後で保健室で薬を貰ってくる」 「大丈夫なの?」 「うん、薬飲んだら直るから。ありがと」 今度は作り物ではない本当の笑いを浮かべると雷蔵も笑った。 いつもより多く感じるご飯を食べるのを雷蔵に手伝ってもらい、ついて行いこうか? と言う言葉を断り保健室へとやってきた。 途中廊下で鉢合わせした乱太郎から新野先生の不在を聞かされ、ただでさえあのまずい薬を飲むのだと思うと気乗りしな いというのにますます嫌になった。 それから数ヶ月前の保健室での出来事を思い出す。 新野先生は善方寺先輩に薬を預けてくれたのだろうか。 あの時、善法寺先輩を傷つけてしまっただろうか。 都合のいい私の頭は今まで忘れていた(いや、忘れようとしていた)あの日の 善法寺先輩の顔を思い出した。頑なに新野先生の提案を拒んだ私に先輩の顔はどうにか笑おうとしていたけれど悲しそう だったのを覚えている。それでも私の頼みを引き受けてくれたのだ、あの人は優しいのだろう。私の偽りの優しさなんか ではなく、本当の優しさ。 けれど、私も必死だった。なんせ善法寺先輩に預けると言っていた薬は月のものになった時に痛みを和らげるもの なのだから。五年間誰にも知られないよう隠し通してきた私が女だということが、ばれてしまいかねない。 保健室の戸の前に立ち、中の気配を探るとちょうどいいことに善法寺先輩が一人でいることが分かった。ごりごりと薬を 作っているのが戸の閉まった外にまで聞こえる。一歩進んで足が動かなくなった。不恰好なままで固まり、この間見た 善法寺先輩の悲しげな顔が頭に思い浮かぶ。 保健室の戸を叩く手がものすごく重い。 「なにしてるんだい?」 すすす、と開けられた戸から私の頭の中を先程から独占していた善法寺先輩が顔を出した。驚きすぎて固まっていると 先輩に手を掴まれ保健室の中へと引き入れられる。 パタン、と背後で戸の閉まる音がしてやっと頭が元に戻った。 何と言えばいいのだろう、この前のことをあやまろうか。 「あ、あの、」 「ん? あっ、薬を取りに来たんだよね? ちゃんと預かってるから」 「はい」と言われて渡されたのは見慣れた包みと今にも零れそうな程水を入れられた湯のみだった。 じっとそれを見ていると口の中にあの苦味が蘇ってきた。やっぱり飲みたくない。 「...善法寺先輩」 「ん?」 「この前はすみませんでした」 頭を下げると手元が疎かになってしまい、いっぱいいっぱい水の入れられていた湯呑みの中から水が零れ落ちる。 手にかかった、と思った瞬間には畳の上に零れた。 「わっ! すいません」 「大丈夫だよ」 先輩の声は穏やかで怒っている風には聞こえない。いつの間にか手ぬぐいを持っていてそれで畳の上の水分を拭き 取っていく。私の位置からは先輩のつむじしか見えない。額に脂汗だかがじわりと出てくる。 「くんは濡れてない?」 「はい。大丈夫です」 よいしょ、と言って立ち上がって先輩は何度も思い浮かべていた悲しげな顔じゃなくて口元を緩ませて薄く笑って いた。とりあえずホッと息を吐く。 「僕はあの時のこと気にしてないよ」 「ですが! 私のあの時の態度は、先輩の事を信用していないと言ってるようなものでした」 「んー、そうだね。けどあの後新野先生から訳があるんだって聞いたから」 「新野先生ですか...」 「うん。君が誰にも知られたくないってこと」 誰にも。と言う言葉に罪悪感が湧いてくる。確かに私が女だという事実は兵助もハチも雷蔵も三郎も誰一人知らない。 騙し続けている。ちくりと何度目になるのか分からない痛みが胸を刺す。 「僕で出来る事があったら遠慮なく言って」 優しさしか感じさせない声で先輩は淡く笑った。目を瞬かせじっと先輩の顔を見つめると困ったようないつものよく見る 顔へと変化した。 「善法寺先輩は優しいんですね」 ポロリと口から零れた言葉は心からのものだ。まさかそんな言葉を掛けてもらえるとは思っていなかった。 失礼な事を言った後輩など適当に相手をしていればいいのに。冷めた頭でそう考えた私とは違い善法寺先輩は失礼な後輩 のために何かしてやりたいと思ったのだろうか。 「それより顔色が悪いよ、早く薬を飲んだほうがいい」 手に持ったままになっていた薬を流し込むと、やはりまずい。慌てて水を流し込むとまた少し水が零れた。 すかさず先輩が手ぬぐいでその水をふき取る。「...すいません」眉をしかめたまま先輩のつむじに向けて言うと「 あやまってばかりだ」と返ってきた。声の調子だけでは先輩の感情までは読み取る事が出来ない。それに善法寺先輩は 感情を隠すのが上手いと思う。それでもこれが長い時間を共にした友であったならば読み取る事も出来たかもしれないが、 私と善法寺先輩は生憎とそのような関係ではない。 「よくこぼして、くんは小さい子みたいだね」 その言葉の端にからかっている響きがあるのが分かり。私はむくれて見せる。顔を上げた先輩が私をみて笑う。ここに 来るまでに抱えていた不安がいつの間にか薄れているのは先輩が私の事を嫌ってはいないのだと確信したからだ。 私を写す先輩の目は穏やかで私の恐れているものはない。 「ちょっと休んでいったほうがいいんじゃないかな?」 「もう大丈夫です」 心配そうに先輩は問いかけてくれたが、薬を飲んだという安心からか、善法寺先輩に少なくとも嫌われていないという安 心からか(たぶんどちらもだと思う)朝よりも下腹部の痛みが和らいでいる。 もとから保健室で休んでいくつもりはなったので、みんなにもすぐに戻ると言ってある。 「そう、じゃ無理しないでいってらっしゃい」 手を振って送り出してくれた善法寺先輩に私も手を振り返す。朝からの憂鬱な気分は清々しいものへと変わり自然と笑み が零れる。善法寺先輩とはうまくやれそうだ、そう思うと足取りも軽い。 (20100125) |