見下ろした先のくんのまぶたが動いたかと思うと、ゆるゆると目が開かれた。現状を理解できていないようで、目玉を きょろきょろと動かして周りを観察している。

「ぜんぽうじ、せんぱい?」

起きたばかりだからだろう、舌足らずな喋りで呼ばれた僕の名前は、呼ばれなれているはずなのに初めて聞くような不思議な感覚がした。

「ここは保健室だよ」

僕の言葉をゆっくりと噛み砕くように口の中で繰り返すと、徐々に思い出したのかくんの表情は驚いたものになったかと 思うと、勢いよく起き上がった。その瞬間ふらりと体が傾きそうになったのを慌てて支える。

「すいません...」

目を瞑り額を押さえるくんの顔色はさっきよりはマシになったかもしれないが、それでもまだ悪い。

「あの、三郎は?」

多分、くんの記憶は鉢屋と実習をしていたところで止まっているのだろう。そう思い、実習中に倒れてからここに運んで きた。と伝える。それから鉢屋は実習に行ったということも。

「すいません...ご迷惑をお掛けして」

本当に申し訳なさそうに謝るくんに軽く笑いながら、大丈夫だと答えるとくんも少しだけ笑ってくれた。まだ親しく なっていなかったころのくんならただひたすらに恐縮しっぱなしだったろう。そう考えると、随分と親しくなったものだ。
小松田さんが呼びに行ってくれたはずの新野先生はまだ帰ってこない。一年生の授業に着いていくとだけしか聞いていなかった のでどこに行ったのかもわからない。

「まだ顔色が悪いから寝てて」

そっと布団に寝かしつけるとくんは抵抗もなく、あっさりと布団の中に納まった。いつもならここで遠慮するなどして 抵抗するだろうに、本当に調子が悪いようだ。「喉乾いてない?」と尋ねると「少し」と答えたので、水を用意しながら 考える。
さて、どう話を切り出そうか。

「ありがとうございます」

起き上がって湯のみを受け取ったくんはこぼさないように注意するように湯のみの中の水をじっと見つめながら口を つけた。喉元が上下に動くのを見つめていると、一筋の水が口元から零れた。慌てたようにくんは布団の上に落ちないよう に袖で拭こうとしたのだが一足遅く、一粒落ちた。けれど、それは布団の上ではなく装束の上に落ちた。紺色の装束が黒に 近い色で染まる。

「あ」

やってしまったという意味が込められたであろう一文字。だが、その後くんは不自然に動かなくなり、その水で出来た しみに視線を落としたまま固まった。

「え...」

続いて自然と零れたのだろう唖然とした呟きに、くんが何にそんなに驚いているのか分かった。
くんが見ていたのは自分の胸だった。いつもなら上手く隠せているはずの。

「...くんが苦しそうにしていたから、さらしを破ったらしいんだ」

出来るだけ何でもないことのように聞こえるよう淡々と喋ったのだが、くんが何でもないことだなんて思うはずもな く、目をこれ以上ないほどに見開き、表情はみるみる絶望的なものになり顔色はなくなっていく。まるで首を絞められて いるかのような顔色の変わり方に驚く。そして落とされた、下手をすると聞き落としてしまいそうな呟きは今にも泣き出し そうに震えていた。

「どうしよう...」

湯のみを持つ手が震え、水に波を起こしている。尋常ではない反応に驚きながらも、その手から湯のみを取り上げ、震える手に 手を重ね、ぎゅっと握る。それでも手の震えは収まらない。

「...ごめんなさい」

俯いてしまったくんは、またも震えながら言葉を紡ぐ。

「善法寺先輩ごめんなさい...今まで騙しててごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。怒ってないから」

優しく言い聞かせると、俯いていたくんが顔を上げた。怯えるような目にはうっすらと涙の膜が張っている。
その痛々しい表情はまだくんがここ―忍術学園―にやってきたばかりの時によく見た表情だ。あの時、僕はくんとは直接知り 合いではなかったけれど、文次郎が後輩だと言って何かと気を使っていたのを覚えている。あの時のくんは周りの人を 恐れていた。それは心無い言葉でくんを傷つける奴等のせいでもあったけれど、慣れない環境全てに対して怯えていたよう にも見えた。

「鉢屋も不破も竹谷もみんな、君の事を心配していたよ」
「...」
「怒ってなかった。ただ、君の事を心配していた」

僕の言葉にうっすらと膜を張っていただけの涙は決壊してしまったらしい。頬の上を涙が転がった。その涙を見せまいとして くんはすばやく俯いた。ぽたぽた、と涙が布団を握り締めた手の上に落ちていく。
一見すると泣いているとは分からないほどに静かに涙する姿は見ていて痛ましい。胸に何かが詰まったような苦しさが襲って きて、僕はそっと手を伸ばしくんの体を抱きしめた。





(20100415)