障子に影が出来たので、立ち上がって戸を横に引くと驚いた顔をしたくんが目の前にいた。まさか僕が戸を開ける とは思わなかったらしい。してやったりな気分で気付けば笑みが零れた。

「ありがとう」

礼を言えばくんが短く、いえ。と答え、目を僅かに細めてゆるく笑った。そのまま部屋に入ってくると湯呑みを持ったまま、 きょろきょろと何かを探しているような素振りで部屋の中を見回し始めた。それにピンときて口を開く。

「ここに置いといて。ありがとう」

いつも湯呑みを置いてある棚を指差せば彼女は一度頷き、棚に四つの湯呑みを並べていく。
それを見届けてから僕は作りかけで放っておいていた薬を作ろうと腰掛ける。よいしょ。と自然に年寄りくさい 言葉が出てきてしまい、思わず苦笑する。

「さっき作ってたやつですか?」

突然、耳のすぐ傍で声が聞こえ驚く。咄嗟に声の聞こえた方を振り向けばすぐ近くにくんが瞳に好奇心を滲ませて、 僕の手元を見ていた。もちろん手元には煎じ途中の薬、一歩手前の物がある。
近すぎる距離に一瞬息を止めるも、すぐに平常心を装いくんの質問に答える意味で頷く。

「さっき乱太郎と数馬に持って来てもらった薬草を入れれば完成だよ」

へぇー。というくんの声が直に耳に入ってくるような感覚を覚えるほどに距離が近い。くんが女の子だと言うこと が分かっているからかもしれないけれど、こうやって聞いてみるとくんの声は少し高い気がする。さりげなく少しだけ 首を動かして距離を取る。

「なんの薬なんですか?」

質問と一緒にくんがその場で動いたのか、髪が僕の首に当たった。心臓が大きく跳ね上がったのは、驚いたから なのか...それとも...。
自分の思考がおかしな方向に進んでいってしまっているのに気付き、無理やり考える事を中断した。

「頭痛を和らげる薬だよ」
「へぇー!」

今度の、へぇー。は感心しているような響きだった。続けて「すごいなぁ」と独り言のように呟かれた言葉が こそばゆい。普段から普通にやっていることをこうやって褒められるというのは何だかとても照れてしまう。
いつもの要領で薬草を計ろうと計量器を取り出すと、くんが床の上をつー、と足を滑らせ僕の隣に正座して ちょこんと座り込んだ。てっきり帰ると思っていた僕が手の動きを止めて見つめるも、くんは興味津々に目を 輝かせて僕の手元を見ているだけだった。その姿に思わず笑ってしまう。
熱心な視線を一心に浴びながら、僕はまた手を動かし始めた。


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「今日は誰も来ないですね」

静寂を破ったのはくんの方だった。もう薬を作る作業は終盤に入っているところだった。出来上がった薬を 少量手にとり、丸く形作る。これをすると手に匂いがこびり付いて中々取れなくなるのが難だが、僕はこの作業が嫌いではなかった。 今までジッと僕の手元を見つめていたくんだが、延々と丸く形作るだけの作業を見物するのは飽きたらしい。

「うん。誰も来ないね」
「けど、おかげで前から見たいと思ってた薬作りが見れました」

満足げにうっすらと笑みを浮かべている。

「見てみたいと思ってたんですけど、誰か怪我した人だとか病気をして寝込んでる人だとかがいて今まで見れなかったんです。 それにあまり医務室に来る機会もなかったですし」
「そうなんだ。けど、そんなにおもしろい事もないよ」
「おもしろいですよ。......今はおもしろくないけど...」
「あはは」

ぽつりと最後に呟かれた正直な言葉に思わず声を上げて笑ってしまうと、くんが恥ずかしそうに縮こまった。
それから暫くは、僕もくんも何も喋らずにいた。僕はひたすらに薬を丸めていたし、くんはそれを黙って 眺めていた。けれど決して沈黙が重苦しいとは感じない。最初に感じていたくんの熱心な視線にも僕はすっかり 慣れていた。


「伊作先輩」

「ん? ......え?」


少しの違和感を覚えて、薬を丸めていた手の動きが止まる。
それから少しして違和感の原因に気が付いた。
くんは僕が驚いたのがおもしろかったのか、にんまりした笑みを浮かべて僕の様子を観察しているようだった。

「伊作先輩って呼ばれてるんですね」
「あぁ...うん。善法寺って長いから」
「ぜ・ん・ぽ・う・じ・せ・ん・ぱ・い」

指折りしながら僕の名前を呟いたくんの指は全て言い終わると九本曲げられていた。ほっそりとした細い指が 一本だけ立っている。

「い・さ・く・せ・ん・ぱ・い」

今度は七本の指が曲げられていて、三本の指が立っている。

「二文字しか違わないんですね」

二本、指を立たせてそれを見つめながらくんが意外そうに言った。確かに言われてみれば僕も意外だった。 もっと苗字の方が長いと思っていたのだけれどそれは勘違いだったらしい。

「伊作先輩の方が短い気がするのに...」

さり気無く呼ばれたいつもとは違う呼ばれ方に、どきりと心臓が跳ねた、気がした。
けれど、気がしただけで気のせいだったかもしれないと、僕は何故か自分に言い訳するように胸中で呟いた。
視線を手元に戻し、後どれほどの薬が出来上がるか目測で考えることにする。まるで自分の気を逸らすように僕は 手元を見つめた。

「私も、呼んでもいいですか?」
「え?」

あと、十...いや、十五は出来るだろうかと数えていた所で考えは中断された。反射的に視線を上げればくんが 僕の反応を伺うように睫毛越しに期待と少しの不安が交じっているような表情でこちらを見ていた。
うっすらと笑みが浮かんでいる口元と少し下げられた眉がくんの心情を良く表しているようだった。
けれどきらきらと光っている瞳には茶目っ気が映っている。

「伊作先輩、って」

言葉を補うようにして付け足された僕の名前が呼ばれると、またしても胸の中のものが大きく跳ね上がった気がした。 それをあえて無視して言葉を紡ぐ。

「もちろんだよ」

笑いながら答えればくんは心底嬉しそうに破顔した。
くんの申し出は純粋に嬉しかった。親しくない人に対してくんはそんな申し出をしないだろうという ことは彼女の性格を考えれば予想がつくことだ。そして逆に言えば、仲良くなりたいと思っていない人に対しては 言おうとも思わないだろう。つまり僕はくんの中にある“知り合い”からの一線を越えたという事だろうか。そうだとすればとても 嬉しい。秘密を知ってしまったからと言うのももちろんあるのだけれど、それを抜きにしてもくんとは仲良く なりたいと思っていた。

「それじゃあ、これからは伊作先輩って呼びますね」

笑顔で話すくんに僕も自然と笑みが零れた。
保健委員の後輩達はみんな僕のことを伊作先輩と呼んでくれる。だからこの呼び方は別に珍しくも何もないはずなのだ。 それなのにくんに呼ばれると、なんだか...ひどく変な感じがする。
それを顕著に表しているのが、心臓が跳ね上がることだろう。それが何故なのか。そのことの意味について僕は考える事を拒否した。



今はまだ気づかない方がいい。






(20110207)