「よし」 さて始めるか、と気合十分に机上に課題の紙を開いたまではよかったが最初の一文を読んで頭が固まった。 提出は今日の授業でと言う期限がこの課題にはついており、俺はそのことに昨日の夜まさに今から眠りにつこうと していた時に思い出したのだが「まっ、明日の朝やればいいだろ」と考えてしまった。そしてそのまま眠りにつき、今現在 あまりに問題が解けなくて青い顔をしながら自分の馬鹿さ加減に嫌気が差してきているところだ。 このまま問題を睨み続けても一向に課題が減らないことは分かりきっている。 俺だってこの五年間で成長したのだ。 分からない問題はいくら粘っても分からない。 そしてこういうとき頼りになるのが友達ってやつだ...! 課題が片付かない時の解決法を思いつき、俺は急いで紙をたたんでそれを腕に抱えて隣の部屋に向かった。早いとこ 片付けないと朝ごはんを食いっぱぐれることになる。 「雷蔵ー!」 “鉢屋 不破”の札が掛けられた部屋の戸を一応軽く叩いてから開け、こういうとき頼りになる友の名を呼ぶ。(この場合、三郎は 簡単には助けてくれないので最後の最後まで声を掛けないようにしている。)だが、部屋の中はもぬけの空だった。 すでに布団も片付けられた部屋を見てそういえば、と思い出す。朝から図書室に行って、昨日少し残っていた仕事を 終わらせると雷蔵が言っていた。三郎も一緒に居ない所を見ると暇だからついて行ったのか、手伝いに行ったのか... どちらにしても部屋には頼りになる友の姿は無かった。その事実に少し焦りを感じながら俺はもう一人の友を訪ねるべく いまだ真っ白な答案を手に廊下を走った。まだ早朝だと言うことを考慮して足音と気配は忍ばせる。 “藤原”と札が掛けられた部屋の前に辿り着き、俺はまだこの部屋の主が出かけていないのを祈りながら部屋の戸を 軽く叩いた。 居ますように...!! 俺の願いが届いたのかどうかは分からないが中から「どーぞ」と少しまだ眠気の 残る声が聞こえた。よかった、居た。これで課題の提出期限を破って先生に怒鳴られたり、最悪の場合罰則を受けること もないだろう。俺はホッと息を吐きながら戸に手をかけ横に滑らした。 「雪美ー、悪いん...」 戸を開いた先に目に飛び込んできた光景に俺は思わず自分が喋っていたことなんか忘れて、急いで後ろ手に戸を閉めてから 自分もその場で直ちに体を反転させる。鼻先に今閉めた戸が迫っているのを見て、しまった! と思った。 戸を閉める時に部屋を出ればよかったのに中に入ってしまった。誰か通りかかるかもしれない、早く戸を閉めなくては...! それしか考えられず頭が回らなかった。 「どしたの」 「えっ?!」 後ろから怪訝な声音で問いかけられ、俺の肩はビクッと大げさなほど跳ね上がった。別にやましいことも無いけど、 頭の中は雪美の問いに混乱していた。 「おおおお前、服」 「ついに言葉を忘れてしまったんだね。かわいそうなハチ...」 わざとらしくしんみりとした声で失礼なことを言う雪美に、思わず振り返って文句を言いそうになったが、寸でのところで 踏みとどまり、目の前の戸に向かって文句を言った。 「ついにってなんだよ! 雪美の所為だろ!」 「え? 私別に何もしてないけど」 勝手に加害者に仕立て上げるのはやめてくれ。心外だと言いたげな含みを持って雪美が呟いた。それと一緒にしゅるる...と 帯を巻くときの音が聞こえて、思わず息を止めた。 ごく、と喉が鳴って意味も無く慌てて手を開いて閉じた。手の平にはじっとり汗をかいていて気持ち悪い。 音から想像して勝手に頭の中でその光景が繰り広げられそうになるのを頭を振って止める。 そんな情けない自分自身の気を逸らすように背後の雪美へと話しかけた。 「き、着替えてるならそう言えよ...どーぞじゃないだろ」 「今更なに言ってるんだ」 ぼそぼそとした俺の声とは違って雪美のは堂々としたものだ。その雪美の声音が潔白であるなら俺のは後ろめたさ満載のものだった。 それがまた居心地を悪くさせ、俺は汗で濡れている手の平を握りこんだ。 雪美の言葉の通り、本当に今更だとは自分でも十分に分かっている。 だが“以前”と“今”とでは事情が違う。 違うなんて生易しい言葉では表せない。それこそ常識だと思っていたものが覆ったかのようだった。 今までなら雪美が装束を着ておらず、さらしだけを体に巻いていた状態を見かけても、その下にはきっと火傷の跡が あるのだとしか想像していなかった。その下にまさか自分とは全く異なった体が隠されているなんて想像した事も無かった。 今まで雪美は男であると思っていた、だが違った。今までどおりとはいっても、こういう場面ではやはり以前と同じ反応を返すことは出来ない。 そこのところの微妙なズレがこんな場面でよく分かる。それなのに当の本人である雪美はその微妙なところを理解していない。 雪美にしてみれば前と同じように振舞い、それと一緒で俺達も前と何も変わっていないと思っているのかもしれないが――それは違う。 「それで、ハチは何か私に用があったんじゃないの?」 不意に言葉を掛けられ、思考が中断した。 「え? あ、あぁ...課題を」 「あぁ」 課題の一言で俺が朝から部屋を訪ねて来た理由に思い至ったらしい。ちゃんと装束を着込んだ雪美は文机の方に歩いて 行ったと思うとその上から俺が苦戦している課題の答えが載っているであろう紙を持ち上げた。 「はい、これ。筆もいる?」 「いるいる!」 慌てて頷きながら返答すると、小さく笑みを浮かべながら雪美が机の上に必要な物を一式並べてくれる。 俺は持ってきていた真っ白な課題の紙をその上に置いて、すっかり空白を埋めてある紙を見た。俺が持っている紙と同じだとは 思えないほどに埋められている。時間も無いので早速、雪美が用意してくれた筆を手に取った。 手に馴染む事は無く、少し違和感を感じながら筆先に墨を吸わせる。 「ありがとな」 手に持った筆を構えつつ紙を手元に引き寄せる。 雪美は俺の横に座ると机の上で頬杖をし、わざとらしく口角を吊り上げた。 「お礼、期待してるよ」 にこにこしながらの雪美の言葉は既に何度も聞いた事のあるものだ。おのずとそのお礼が何であるのか理解でき、顔が呆れて歪んだ。 「雪美すぐそれだなー。食い意地はりすぎ」 「なっ、別に食べ物とは言ってないじゃないか!」 「どーせ食べ物だろ」 雪美が怒るだろうことを予測して...いや、怒らせるために俺はわざわざ憎たらしい言葉を選んだのだ。 鼻から息を吐いての言葉に雪美は想像通り、眉を吊り上げた。 「ハチに言われたくないし!」 「どういう意味だよ」 「あれ? わかりませんでした? ハチこそ食い意地がはってるって言ってるんですよ」 「なにおー!」 怒ったふりをして声を張り上げれば雪美が楽しげな声を上げた。その声を抑えるように口を両手で覆って、くぐもった笑い声を上げる。 それを見て俺は眉を顰めてみせる。 それがますます雪美の笑いに拍車をかけたようで笑い声は大きくなる。 釣られて俺も笑うと雪美が自分のことは棚に上げて人差し指を口の前に立てた。 「しー、近所迷惑だよハチ」 「近所迷惑、って言うのか...?」 「え、近所迷惑じゃなかったらなんて言うの?」 「......さぁ? わからん」 普段どおりのやり取りに俺は心中で大きく安堵の息を吐いた。 (20120329) |