朝、すでにの部屋はもぬけの殻であった。 確かに昨日の夜、陽が登らないうちにここを出ると聞かされていたのだが、 もしかしたら...と考えていた兵助はがくりと肩を落とした。 が居ないのを見てあからさまに肩を落として落ち込んだ様子の兵助に一緒にいた三人は皆訝しげに眉を顰めた。 昨日の夕食時のことを思い出せば、と兵助は二人とも様子がおかしかった。は何か考え込んでいるのか無口 であったし。兵助はちらちらと落ち着かない様子でばかり見ていた。あんな視線を送られていたのだから も気づかないわけがない。それでも知らぬふりをしていたと言うのだから、二人に何かあったことを想像するのは容易 い。 「となにかあったのか?」 口火を切ったのはやはり我慢強いとは言えない、八左ヱ門であった。 二人の問題なら口を挟まないほうがいいだろう、と雷蔵も三郎も八左ヱ門も納得したはずなのに我慢できなくなったらし い。夕食を摂るまではどうにか我慢していたようだが貧乏ゆすりを始めた頃から限界かなと二人とも思っていた。 もちろん雷蔵も三郎も問題が解決しないようであったなら口を挟むつもりではあったが、まだ早すぎる。 「八ー?」 呆れながら雷蔵が嗜めればびくりと肩を震わせ、誤魔化すようにハハハ...と笑っている。 「まぁまぁ、雷蔵許してやれよ。八が我慢できるわけないって分かってたじゃん」 「なんだよ! 三郎!」 「なに? せっかく庇ってやってるのに」 「え? あ、そりゃ悪ぃ」 庇われているのか馬鹿にされているのかよくわからない言葉だったというのに八左ヱ門はあっさりと三郎に言いくるめら れ謝罪を口にしている。生憎とそれを指摘するつもりが残りの二人にはなかったので、そのまま流される事になった。 こうやって庇おうとするところからして三郎も知りたかったのだろう。 「それで兵助、どうなんだよ」 「ああー、昨日ちょっと...」 「ちょっと、なんだよ?」 「んー」 「言えないことなのか?」 次々と二人によって投げかけられる言葉に兵助は答えづらそうだ。難しい顔をして黙り込んだ。 それを見かねて雷蔵が助け舟を出した。 「もう、二人ともその辺にしときなよ」 「雷蔵は知りたくないのか?」 「そりゃ知りたいけど、まだも帰ってきてないのに、」 その後の言葉は続かなかったが、言葉にしなくても後の三人には何が言いたいのか分かった。 がどう出るのか分からないのに、口出しすべきではない。雷蔵はこう言いたいのだろう。雷蔵の言い分も分かるし 口を挟むべきではない、と言ったのにもそういう意味が含まれていることが八左ヱ門も三郎も十分に分かっていた。 なので図星を突かれた二人はバツが悪そうに黙った。それを見て雷蔵が苦笑を浮かべながら溜息をついた。 兵助は黙ってなにか考えるように机に肘を突いた。 一人しか足りないはずの部屋の中は、しんと静まり返っていた。 人は気にかかる事があると眠れないというが、兵助も例に漏れずそうであった。 うとうとしては目が覚め、そしてまたうとうとして、をここ数日繰り返していた。 なので襖の開く、小さな音を聞き逃さなかった。 ぱちりと目が覚め、頭は覚醒していなかったが体は起きていた。考えるより先に布団の中から抜け出し部屋から飛び出し た。数部屋隔てた所に今兵助の頭の大多数を占めている人物の部屋がある。そして襖の開く音は間違いなくその部屋から した。同室の友人を起こさないよう静かに襖を閉め、の部屋へと歩を進める。 早る気持ちを抑えきれず平常時であればしないであろう初歩的な、床板を踏み鳴らすという失敗を犯したが目的の部屋の 前へと辿りついた。 そこでふと、今更だが任務を終え疲れて帰ってきた所へおしかけるのは迷惑ではないか、と自分の今から起こそうとして いる突飛な行動を客観的に考えてみて足が止まった。 やはり明日にしよう、と思ったところに目的の部屋の襖が開いた。 少しの隙間から光る目が覗いている。 「...おかえり」 任務から帰ってきたときに掛けるべき言葉は昔から決まっていた。それを少々驚きながらもいつも通りに口にすれば は襖を開けた。 「ただいま」 「怪我してないか」 「...大丈夫」 こくりと頷いたの髪から雫がたれ、床の上に落ちた。しっとりと濡れたの髪を見、風呂に入ってきた所なのだと 兵助は考え、匂いに意識を集中させた。すんと不自然でないよう鼻を鳴らすも血の匂いはしなかった。 自分からを訪ねてきたというのに何と言おうか考えてきていなかった兵助は黙り、床の上で月の光を浴びきらきらと 光っている雫へと視線を落とした。 「集中できなかった」 ぽつり、零された呟きに視線を雫からへと移動させればも兵助と同様で雫を見ていたのか視線は下にあった。 俯きがちなの瞳を睫毛が覆い隠す。 「任務に?」 兵助が問い返すのをまるで予期していなかったように驚いた色を瞳に浮かべ、まっすぐな視線が兵助に向けられる。 足元に転がっている月の光を浴びていた雫よりも、きれいだと光を映したの瞳に思った。 そう。とだけ簡潔に、けれどきっぱりとが答える。 「兵助が言ったこと、考えてて。頭の中そればっか」 自分の言ったこと......と言われ何のことかと迷う事も無く、パッと頭に思い浮かんだ。あの時の風の音に葉の擦れる音 心臓の音何もかも全て、数日経った今でも完璧に思い出すことが出来る。それほど強く兵助の中に残っていた。 そしてそれはも同じだったのだろう。だから任務に集中できなかった。 「兵助に嫌われたんじゃないかって、軽蔑されたかもって、」 「何でそうなるんだ?」 心の底から分からないと言いたげに、兵助が問い返せばは僅か目を開き驚いたような顔をする。 「気づいたんじゃないの」 「何に」 「私が声を掛けなくても、大丈夫だと兵助は言ってくれた。」 「うん」 「そしたらその逆の私が何で声を掛けるのか、ということにも気づいたんだろう?」 自分の居場所を確保するため人に親切にしている。とは言いたいのだろうか。 そこまで考えたが何故それで軽蔑することになるのか理解できなくて兵助は思ったままに口を開く。 「気づいた。けどそれで何でを軽蔑するんだ」 「汚いじゃないか」 「きたない?」 「自分のことしか考えていない、自分勝手な醜い考え方だ」 さっきまで光っていたはずのの瞳は淀んで光をなくしたように見える。口元には笑いを浮かべているのに、泣き出し てしまいそうな顔をしている。それに胸が痛むのを感じながら兵助が口を開く。 「俺はそう思わない」 が視線を自分に向けたのを確認してから兵助は喋り始める。 「お前がしてるのは人助けだろ? それのどこが自分の事しか考えてないんだよ、人の事気にかけてないと手伝って やるべき時だって分からないだろ。自分の事しか考えてない奴にそんなこと出来んのか。 それに助けてもらった奴らは感謝こそしてもが自分勝手な奴なんて思ってない」 一息に言ったものだから苦しくなって一度空気を吸ってからまた口を開く。 「つまり、汚いとも自分勝手とも醜いとも思わないって言いたい...んだ俺は」 言い終わってちらりとの様子を盗み見るが、何の感情も読み取れず慌てて付け加える。 「もちろん軽蔑なんかもしてない」 勢いのままに言ったので声量を上手く調節できず、大きく兵助の声が静まり返った長屋に響く。はっとして口を押さえる も意味の無いことだった。決まり悪く思いながらを伺うときょとんとした顔をして兵助を見ていた。その反応が自分 だけが熱くなっているように感じ、どう言えばに伝えられるかと考える。真剣に眉間に皺を寄せて考え込んだ兵助の耳 に小さな笑い声が届き驚いてその声の先へと視線を向ける。 「そう」 「そうだ」 安心したように笑ったに自分は間違っていなかったと安心した兵助も小さく笑った。 「もし兵助に嫌われたらって考えてたら、ここを切られてしまった」 「さっき怪我しなかったって言わなかったか?」 「してないとは言ってない、大丈夫って言ったんだ」 「同じだろ!」 手当てしてもらったのか。との袖を捲り見てみると包帯が巻かれてあった。それに安堵の息を吐く。すると 「心配した?」と嬉しそうに笑みを浮かべが問う。性質が悪いと兵助が眉間に皺を寄せる、が気にしていないふうに が続ける。 「兵助に嫌われたり、軽蔑されるのが一番こわい」 さっきまでは笑っていたのに口を真一文字にし、なにかを耐えるようにが言った。瞬きすると今にも瞳から涙が零れ そうだった。それを見ながら兵助は自分達が幼くまだこの学園に着たばかりの頃のことを思い出していた。 見かけには成長しているのに内側の根本的なところ は変わっていない。けれど、あの時はまだ自分はの中の深くまで到達できていなかった、それが今は自分に嫌われる のがこわいと言って泣いている、それはの中に根を張ることが出来たということだ。(もちろん言葉で表されたのは 自分だけだったがその中に八左ヱ門も三郎も雷蔵も入っていることは分かっている。) それが純粋に嬉しくて兵助は笑ってしまった。次の瞬間、にやけた兵助の頭に容赦なく拳が振ってきた。 「いたっ?!」 「なに笑ってんの!」 「え?俺笑ってた?」 「にやにやしてた!腹立つ」 顔を紅潮させてるのが暗いながらも分かる、手を振り上げたが何度も叩くので、にやけ顔もすぐに引っ込める事に なった。容赦ない拳を浴びせられたそこを擦っていると、目を吊り上げたが右隣の部屋を睨みつけた。 「そこで聞き耳たててる奴ら...」 「......」 「名前を言わないと分からないのか?」 声音に脅す響きがあるのを感じてか、八左ヱ門も三郎も雷蔵観念したように姿を現した。 周りのことなどに気を配って居なかったのだが、どこかで聞いているだろうなと思っていたので三人が姿を現しても兵助 は驚かなかった。 「いやー、仲直りできたようで良かったネ!」 「ネッ!」 「ねー」 業とらしく三人で首を傾げながら相槌をうっているのを呆れた目で見る、てっきり怒鳴り声が響くと思ったのだがそれ は一向に聞こえてこず兵助が隣を見てみると予想と反し、眠たそうに目を擦り大きなあくびをするがいた。 そしてその緩みきった態度に感染するように兵助もあくびをしながら、やっと眠る事が出来る。と心の内で呟いた。 (20091218) |