顔中のべたべたが拭われた私の顔はすっきりきれいになったようだったけど、気持ちはすっきりなんてことにはならず にどんよりという感じだった。だって考えてもみてほしい、今から拷問宣言されているというのにすっきり気分に なんてなるのはどう考えたって無理だ。本当はここで親切に私の汚い顔をきれいにしてくれた佐助さんにお礼を言うべき ところだというのは分かっている。けどこれから私にひどいことをする人にお礼を言うなんてのは出来なった。
私の中の善良な部分がお礼を言うべき! と言っているがそれ以上にこんな格好までさせられてるのにお礼なんてしなくて いいよ! という私の中の邪悪な部分の主張が勝った。
いっそのこと汚い顔で放っといてくれればよかったんだ。
ぶすっとした顔をして黙って座っていると佐助さんの後ろから鼻に紙を詰めた ままの幸村さんがひょこっと顔を出した。いつもだったら吹き出していただろう間抜けな幸村さんを見ても私の表情筋 はぴくりとも反応しなかった。むしろそんな間抜けな格好をしてる幸村さんに舌打ちをお見舞いしてやりたいところだ。

「...炎丸(仮)というのであれば某と佐助の前で炎丸(仮)の姿に戻ってくれぬか」
「そうだねぇー、旦那の言うとおり今ここで炎丸(仮)に戻ってよ」

幸村さんの声は少し同情しているかのように私の耳にまで響いた。顔面をべちょべちょにしてて可哀想だと思ったのか、 犬だと主張するのを頭がおかしな奴として同情されたのかは分からないけれど、さっきまでの完全に敵として みられるよりはだいぶマシだ。
それに対して佐助さんときたら......完全に私の事をなめている。
“やれるもんならやってみな”と言う本音が隠れずに透けて見える。
くそうっ......今度寝てるときに寝ぼけたふりして肉球パンチを顔面に食らわせてやる...!
密かに胸の中で決心をしてから、はたと気付く。
今度なんてあるの?
今だって何故人間に戻る事が出来たのか分からないし、それの反対で何故今まで犬だったかも分からないのだ。 確かな事は昨日寝るまでは犬で、起きたら人になっていたということだ。
幸村さんと佐助さんの提案にはのりたくてものれない。幸村さんの言うとおりに出来ればどれほど良かっただろうと思いながら私は重い口を開けた。

「...どうやって戻ったか分かんないです......」

ぼそぼそっと真実を話す。二人の反応を見るのが怖くて俯いていると、意味ありげな佐助さんの「ふぅん」と言う 声が聞こえた。思わず顔を上げると佐助さんはやっぱりとでも言うような表情を浮かべていた。幸村さんも佐助さん ほどではないけれど、私の返答を想像していたものとして受け止めているようだった。つまりは最初から二人とも 私が炎丸(仮)などとは思ってはいないのだ。頭がおかしな女と思っている、それとも嘘の下手な女?
どちらにしても二人から見た私はただの曲者だった。
悔しい、悲しい、腹が立つ、お腹の中で色んな感情が渦巻いて熱く感じる。

「なんで信じてくれないの...」

お腹の中で交じり合った感情が爆発したように私は声を絞り出した。全身が燃えるように熱い、なのに内臓とか中の方は 冷たい。喉がひくついて痛かった。
生理的な涙が込み上げてくるのを感じて我慢するために頬の内側を噛んだ。さっきも大泣きしてるかっこ悪いところを 見られたのだ、これ以上かっこ悪い姿は見られたくなかった。
泣きそうになっているのを誤魔化すために私は適当に思いついた話をすることにした。

「...佐助さんなんか寝る前に私の鼻にチューしてたくせに」
「...はぁ?」

佐助さんの素っ頓狂な声を聞いて私は、あっそうかと気付いた。

「チューって言うのは口を...」
「分かってるからっ! 何言ってんのアンタ!」
「え...」
「アンタにそんなことした覚えないんだけどっ?!」

佐助さんはここに来て初めて動揺しているらしくさっきまでの冷静さが無くなって、顔色を変えて大きな声で怒鳴った ここまで感情を露わにしてる佐助さんは珍しい。あまりにも珍しくて少しの間ポカンと口を開けて顔を赤くしてる 佐助さんをまじまじと見てしまった。さっきまで薄ら笑いを浮かべていた佐助さんとは別人みたいだ。
そこで私は気付いた。多分これは佐助さんが隠したい恥ずかしい秘密だったんだ、と。
きっとこの秘密を知ってるのは当事者である私――炎丸(仮)と佐助さんだけだ。
思わぬところで一筋の希望を見つけた私は畳み掛ける様にして言い放った。

「一緒に寝た仲じゃないですか。私炎丸(仮)ですよ?」

どうだ。これでも私が炎丸(仮)じゃないというつもりか!
その秘密を知ってるのは炎丸(仮)である私と佐助さんだけだろう!
間違いなく鼻にチューされていたのは炎丸(仮)の私だし、固くて寝心地の悪い佐助さんの太ももを枕にしていたのは 炎丸(仮)である私だ。佐助さんの口が唖然と開いているのを見て拷問を受けずに済むかもしれないと考えた私は現金にも涙が引っ込んでいったのを感じた。 それどころかうっすらと唇に笑みが浮かんだ。