「はぅ...(はぁ)」

ため息を吐き出したのは紛れもなく私であった。それなのに覗きこんだ池に映ってこちらを見ているのは犬だ。
この不思議な世界(...最初は過去にきてしまったのだと思ったが、過去にはないはずの物や、格好や、常識では 考えられない事(例:人が炎を出したり)がたくさんあるのでここは過去ではなくどこか不思議な所という結論が 今のところの私の見解だ)にわけもわからずやって来てから気付けば一月の月日が経っていた。それはつまり私が犬の姿に なって一月も経ったということだ。今のところ元の姿に戻る様子はなく、その当てもない。

「なにしてんの? あー、分かった。池に映る自分の姿に惚れ惚れしてたの?」
「...わん(違いますー。あっち行け)」

人がアンニュイな気分でいるというのに、やけに明るい佐助さんの声にうっとうしく返事をする。
池に映る自分の顔は犬ながらに迷惑そうな顔をしている。

「あっ、腹立つなその顔」

ぐりぐりと頭を揺すってくる佐助さんに反撃と、前足で佐助さんの脚を叩く。

「生意気ー。そんな態度だと...こうだ」

そう言って鼻の前に何かを握った手を差し出される、くんと鼻をひくつかせ匂いを嗅ぐとぷ〜んと物凄く強烈な匂い が鼻腔を駆け抜ける。あまりの臭さに、ぷしゅん! とくしゃみみたいなものが出た。

「へっへー。俺様に逆らうとこうなんの、分かった?」
「わん!わほ!(鬼!悪魔!)」

満足げな佐助さんが手の平に握っていたのは丸くて黒い粒だった。多分、薬とかそんなのだろう。漢方薬みたいな 匂いがしたから。人間の時ならこの匂いもこんなにも強烈に感じなかっただろうに、犬の嗅覚になってからは 鼻がひんまがりそうなほどに臭く感じる。そしてそんな匂いを嗅がせた佐助さんは間違いなく悪魔だ。
佐助さんは何故か私が言っている事が時々分かるようで、こちらがどうせ分からないのだし。と人であったときなら オブラートに包み込んでいた言葉をオブラート無しでぶつけたりするとこうやって痛い目をみさされる時がある。
今の鬼、悪魔という言葉も分かったようでにやりと怖い笑みを浮かべている。
これはとっとと退散しないと今度は鼻の穴にさっきの薬をつめられるかもしれないと思い、走ってその場を離れた。

「おぉ! 炎丸(仮)!」
「わん!(幸村さん!)」

炎丸(仮)と呼ぶ幸村さんに内心やめてほしい! と叫びながら後ろから佐助さんがやってきやしないか警戒しながら近づく。
炎丸とは幸村さんが私につけた名前だ。ここでお世話になって一週間ほど経った時だった。
「名前がなくては呼びづらい!」
という幸村さんの言葉に私の名前がつけられることになった。すでに私にはという立派な名前があるのだが、 それを伝えるすべを持たないので、黙って事の成り行きを見守っていたが、炎丸などというダサい名前を 付けられては黙っちゃいられない。名付け親の幸村さんは、どや顔だったが私が激しく「わんっ!ぅーわん!わん!!! (反対!反対!絶対反対!!!)」と吠えると、さすがに拒否してる事が伝わったらしい。しゅん、と頭を垂れて 悲しそうな顔をしていた。だが、それから良い名前が思いつかないということで今は仮が付けられ、“炎丸(仮)”というわけだ。 このまま私が戻れずに自分の名前を伝える事が出来なかったら“炎丸(仮)”が本決まりしてしまいそうな感じだ。 それだけは避けたい...。

「そのように慌ててどこに行くのだ?」

汗を拭きながら尋ねるその姿を見るに、鍛錬中だったらしい。遥か上にある顔を見るために曲げた首が痛い。

「あまりはしゃぐとまた傷が開くいてしまうぞ」
「くぅー...(佐助さんがひどいんです)」
「なに旦那に告げ口してんの」

わっしゃわっしゃと力強く頭を撫でてくる幸村さんに先ほどの告げ口とばかりに口を開けば後ろから佐助さんの 声が飛んできた。ささっと幸村さんの後ろに隠れる。またあの匂いを嗅がされてはたまらない。

「佐助、炎丸(仮)を苛めるな!」
「苛めてないよ。教育的指導ってやつ?」
「ぎゃう!(違う!虐待だ!)」
「ぬお!」
「...ちょっとどこから出てくんの炎丸(仮)」

ずぼっと幸村さんの脚の間から顔を出すと幸村さんが驚いたような声を上げて、佐助さんが呆れた顔をしてこちらを 見ていた。別に犬なんだからいいじゃないか、と今の私は気が大きくなっているかもしれない。

「こうしてくれる」

幸村さんが呟いたかと思うと脚で挟まれた。もちろん間にいた私はお腹を圧迫される。口から空気が抜けるような 音がした。けふっ、みたいな。それを見て佐助さんが愉快そうに笑っているのが見えて少しむっとする。
じたばたと前足を動かし、後ろに体を引こうにも幸村さんは放してくれない。
......これは最終手段を出すしかないようだ。
「きゅーきゅー」と哀れっぽい声を出して、じっと幸村さんを見つめる。これがどれほどの威力があるのか私はこの 世界にくるまでに(つまり人だった頃)十分過ぎるほどに知っている。そしてこの威力は世界が変わっても変わるものではないのだ...! 私の読みは間違っていなかった。今まで楽しそうに笑みを浮かべていた幸村さんの表情が困ったようなものになった。 その時、足の力が緩んだ。その隙を逃さずに後ろに飛びずさって脚の間から抜け出す。
あ、という声が聞こえたが無視して文字通りしっぽを巻いて(しっぽ掴まれたら嫌だから)私は走って逃げた。

「かっこわるー」
「うむ、情けない後姿でござる」

うるせー!!