ここにやってきて私がまず最初に体験したのは体のそこかしこに走る痛みだった。それから冷たさだ。 薄っすらと目を開いてみると視界が霞んだ、それでも懸命に今自分の周りの状況を確認しようと力を振り絞った。
目に入ってきたのは青々と茂った雑草に、雲に覆われた空だった。そしてその風景の映り方から今現在自分が地面の 上に横たわっているのが分かった。それからこの冷たさがなんであるのか理解した。今もなお空から降り続いている 雨だ。どこか雨宿りするところ...と思ったが、体が動かないのだ、どうしようもない。やがて抗いがたいほどの 眠気がやってきた。
このままここで死ぬのだろうか。それは嫌だ。なのに自分ではどうすることも出来ない。

あったかい。
気持ちいい。

ふわふわとなんだか心地良い。ゆるゆると意識が底から浮上してきた。
そこでやっとこの気持ちよく暖かいものの 正体が夢うつつながらに分かった。
誰かが頭を撫でてくれてる。その手つきはひどく優しくてくすぐったさを感じるくらいだ。小さい頃にしてもらった感覚 に似ている。大きくなった今では味わう事が出来ないものだ。目を覚ましたらこの手は撫でてくれなくなるだろうか? それならもう少しだけ眠っているふりをしようか。
まどろみの中に身を投げようとした時...。

「おやかたさばぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

耳をつんざく様な大声に驚いて思わず目を開けてしまった。一体なんだ?! 飛び上がろうとしたが、体が痛くてそれは 出来なかった。少し動いただけでも痛む。立ち上がりかけたが、崩れるようにしてもう一度倒れこむ。

「ほらほら、お前はもうちょっと安静にしときなさい」

優しく低い声だ。目だけを動かして声の主を探すと、すぐそばにその人は居た。そっと、布団か何かを体にかけられる。 太陽がまぶしくてその人の顔までは見えない。目を細めてみても見えない。私からはその人は見えないけれど、その人 からは私がよく見えるのだろう。軽く笑う声が聞こえた。それから頭を優しく一撫でされる。

「旦那ー、ちょっと静かにしてよ」
「むっ、すまん」
「まぁ、今回は旦那の馬鹿でかい声が幸いしたかもだけど」
「なんのことだ? 佐助」
「目、覚めたよ」
「...何?! それはまことかっ! 佐助っ!」
「あー、まことまこと。だからもうちょっと静かにしてくれる?」
「むっ! すまん」

どこかぬけてる会話は耳をすまさなくても軽々と耳まで聞こえた。それほど“旦那”という人の声が大きいのだろう。 目が覚めたばかりで何がなんだか分からない私はとりあえず聞こえる“旦那”と“佐助”の会話に耳を傾けた。
目が覚めたというのは、もしかしなくても私のことだろうか。確か私は......おぼろげな記憶をひっぱってくると、 雨の匂いがした、気がした。それで思い出した。そうだ、私はなんでか死にかけていたのだった。
体の痛みから考えても私はどうやら死なずにすんだらしい。

「おぉっ! 目が覚めたのか、良かった!」

急に目の前に現れた人に、今まで考えていた事が頭から吹っ飛ぶ。
私の顔を覗きこむようにこちらを見ている人に驚き、びくっと体が震えると誰かの手が伸びてきて目の前の人の顔をぐいっと 押した。

「ぬっ! 何をする佐助!」
「こいつ旦那にびびってたじゃない」

“こいつ”とはどうやら私のことらしい。なんだかやけに親しい...というよりも馴れ馴れしい呼び方だ。
それよりも“旦那”というから勝手に年を取ったおじさんくらいのイメージをしていたのだが、私を覗き込んでいた 人は随分と若かった。

「旦那は声が大きいの! こいつだって三日間寝てて今やっと目覚めたとこなんだから」
「むぅ...すまん」

そう言って“旦那”が私の頭に触れた。三日間眠り続けていたという言葉に衝撃を受けていた私だが、頭を撫でられる 感触にハッとする。その手つきは恐る恐るしたものでひどく優しい。気持ちよさに目を細めると“旦那”が固い表情を緩めた。

「驚かせてすまなかった」

もう一度謝罪の言葉を口にして、本当に反省しているらしい人に私はそんなに気負わないでほしいと言うために 口を開いた。久しく水分を口にしていなかったらしい口内はからからだった。冷たい炭酸が飲みたい。

「わふ(大丈夫です)」

え?
...え?
......え?

「佐助、こいつはなんと言っているのだ?」
「...旦那〜、いくら俺様でも犬の言葉は分かんないんだけど」

何がなんだか分からずに固まる私を放って話し始めた二人の会話の中に聞き捨てならないものがあった。
犬? 今、犬って言った?
思考が追いつかなくて一瞬フリーズしてしまったが、私は頭を撫でてくる手を無視して頭を起き上がらせた。 その間にも「動いたら傷が開く」とか聞こえたが、そんなのに構っている余裕はない。そして傷が開くのにも構わず に自分の体を見てみると、布が被ってない脚が見事なまでに犬のものだった。ふさふさ生えている毛や、形、なにも かもが人間のものとは違う。
痛みも忘れ起き上がり、自分の手を見つめると肉球があった。


「わふわんわー!!!(なんじゃこりゃーー!!)」


「一体どうしたのだ?」
「さぁ? なんか犬らしくない反応をする犬だね...」