コールミー




帰り支度を終えてロッカールームから出ると、ベンチに座っていたキースさんが立ち上がった。
一足先に帰り支度を終えていたらしい。

「それじゃあ帰ろうか」

すでにお決まりの台詞に私はぎこちなく頷いて答えた。まだロッカールームには虎徹さんとアントニオさんが残っているのだと キースさんが言うので、ロックをせず、電気も消さずにトレーニングルームを後にした。
私とキースさんはどちらの道を行くかなんて一々聞く必要も無いほどに一緒にこの道を歩いているので、特に話す ことも無く歩く。空はすっかり暗くなっていたが、街中ということもあって店の明かりや街灯のおかげで足元は見える。 まだそう遅い時間でもないので、人の姿もたくさんだ。私は俯きながらこの状況に焦りを覚えていた。
何か会話を...! そう思うけれど何も気の利いた話題は浮かばない。
いつも一緒にこの道を歩く時には一体何の話をしていたのかと考えるが、焦っている所為でなのか思い出せない。 頭の中ではどういう会話をするべきかについてじゃなくて、キースさんと私は付き合ってる...つまり恋人......恋人...!?  とか、自問自答を繰り返してその度にその答えに驚いていた。そして大声で叫びながら走って逃げたいところをどうにか抑えて ゆっくりと足を進めた。
キースさんに勘違いだったと言って謝る。
当初の予定ではそのつもりだったのにいざその場面になると、私の頭からは都合よくその選択肢が排除された。
今日はやめとこう。雑誌の占いでも今日は日が悪いって書いてたし。たぶん今日はやめときなさい、と神様が言っているのだ。 神様の言うとおりにすべき。色々と頭の中で今日は言わない方がいい理由を並べて口実を作った。

「...くん?」
「あ、え、はい!」

すっかり自分の世界に閉じこもっていた私は、名前を呼ばれて慌てて返事をした。

「大丈夫かい?」
「大丈夫です! ちょっとぼんやりしてただけです!」

青い眼が心配そうに覗き込んでくるので、慌てて元気良く声を張り上げて返した。
ならよかった。と緩く笑みを浮かべた キースさんに私は胸を針でぶすぶす刺されたように痛みを覚えた。半端では無い罪悪感...!
この二週間、何も知らなかった私ならこんな罪悪感なんて感じることも無かったのだろうけど、昨日で状況は一変した。 (本当は二週間前に、一変していたのだけど...)こんなことなら知らないままで居たかった、なんて思うのはただの 逃げでしかない。どちらにしろ、近いうちに知る事になっていたのだ。
...あぁ、走ってこの場から去って、ベットに飛び込みたい。

「お腹減らないかい?」

またしても現実逃避を始めようとしたところで声を掛けられ、私は意識を現実に引き戻された。

「あまり減ってないです」

むしろ胃の調子がおかしい気がする。この否が応にもプレッシャーを感じる環境では胃は縮み上がっていて、空腹を 感じるどころか胸焼けを起こしそうだ。多分過剰に胃液が溢れている。
今までトレーニングをしていたからだろうけど、キースさんは意外そうに「そうなのかい?」と少しばかり目を丸くする。 いつもならトレーニングを終えた後はお腹の虫が大合唱することも少なくないのだけれど今はそうはならない。

「私はもうペコペコだよ」

なんかキースさんがお腹ペコペコって言うの似合うな...。お腹を擦りながらよわったように眉尻を垂らしたキースさんは 何だか、何かを恵んであげたくなる哀れな雰囲気を漂わせていた。例えるならば、お腹がぺこぺこな犬を前にした時の感情に似ている。 私は何かお腹の足しになるものは無かったかと、鞄の中を探って、グレープ味のガムを見つけた。

「どうぞ」
「ん?」
「ちょっとはお腹の足しになると思います」

キースさんの大きな手に残り二つだった銀紙に個包装されたガムを落とすと、キースさんはまじまじとそれを見つめた。 歩みまで止めてしまったので私も自然と足を止める形になる。自分の手の中のものを依然見つめたままのキースさん に私は不安を覚えた。もしかしてグレープ味は嫌いだったのかもしれない...余計なことだっただろうか...。 もし余計なことだったのならキースさんに気を使わせてはいけないと、私は恐る恐る動かないキースさんに話しかけた。

「あの、」
「...」

私の声が聞こえていないのか、じっと手の中のガムを見つめて動かないキースさんに私はもう一度声を掛けた。

「グレープ味、嫌いでした?」
「嫌いではないよ! 大好きさ!!」

さっきまで動かなかったのに、急に大きな声で力説して迫ってきたキースさんに私は上体を逸らして驚いた。 道の真ん中でのやりとりに、周りを歩く人が注目しているのを感じて私とキースさんは何事もなかったように歩き出すことにした。

「ありがとう」

周りにすっかり溶け込んだところで隣から声が聞こえて私は視線を上げた。
そこにすごく嬉しそうなキースさんを 見つけて思わず目が泳ぐ。ガムを二粒もらっただけの笑顔じゃないほどキースさんの表情は輝いていた。
ただのガムなのに、それ以上のものを貰ったみたいに笑うキースさんに、私は申し訳ないような気分になったが、 同時に役に立てたと言えば大げさだけどそんな気になってちょっと嬉しかった。

「...よかったです」
「ん?」

ぽつんと呟いた言葉を思いがけず拾い上げられてちょっと焦った。

「キースさんがガムを好きで...その、ガムたちも喜んでますよ!」

慌ててわけの分からないことを言うと、キースさんが驚いた表情を浮かべたので私は恥ずかしくてたまらなくなった。 ガムたちが喜んでるってそんなわけがない。ガムたちはきっと食べられたくない決まってる。
またしても道の真ん中で立ち止まった私たちに通行人たちが少し迷惑そうに避けていくので、私はこの空気を流す ためにもさっさと歩き始めることにした。「邪魔になってるので行きましょう!」と、キースさんを促すことも忘れずに 歩き出す。キースさんは呆けたような顔をしていながらも、ちゃんと私の声は届いていたらしく、私の後を歩き始めた。 早く家に帰ってベットに飛び込みたいという願いをかなえるべく、さっさか足を動かして後ろを確認せずにいると、 キースさんとの距離が結構開いていることに気付いた。一緒に帰っているのにこれじゃ別行動をしているみたいだと 思って、私はその場で足を止めてキースさんが追いついてくるのを待っていた。
キースさんは何か考え事をしているのか、俯いて顔が見えない。

「...大丈夫ですか?」

もしかしてお腹が空き過ぎて気分でも悪いのかと声を掛けると、やっと顔が上げられる。何か考えている様子だったのが、私と目が合ったことに よって意識が戻ってきたようだ。考え込んでいる表情はそのまま、じっと目が合ったまま動きを止めたキースさんに 私は気まずさを覚えて目玉が泳いだ。
そんな私にもおかまいなしにキースさんは私の顔を見つめている。
このままじゃ顔に穴が開くかもしれないと思ったところでようやくキースさんが口を開いてくれた。

「さっき私のことを、名前で呼んだかい...?」

どこか自信が無さそうな物言いでの言葉に何かを感じるよりも先に、私は泳いでいた目玉をキースさんに定めた。

「あ! すいません勝手に...」

ネイサンからのアドバイスを貰ったまま、何も考えずに突然名前で呼んだのだ。今まで“スカイハイさん”と呼んでいたのを 突然名前呼びで“キースさん”なんて馴れ馴れしかっただろう。
許可を先に貰うべきだったのだと、今更なことを 考えて慌てる。だが、キースさんも私の言葉を聞いて慌てた様子で首を左右に振った。

「そうじゃないんだ!」

首と一緒に両手を振りながら激しく否定され、私は頭に疑問符を浮かべた。どうやら怒っているわけでも気を悪く したわけでもないことは分かったが話が見えず、続きを促すようにキースさんを見つめる。すると、まるで私の視線 に怯んだように青い眼が泳いだと思うと、唇にきゅっと力が入れられたのが見えた。

「...すごく嬉しいんだ」

キースさんの顔が赤く色づいていくのを私は真近で眺めていた。その言葉の通りにキースさんはとても嬉しそうな表情で照れたようにはにかんだ。 さっき怯んだように見えたのは、どうやら照れているの間違いだったのだと気付いた。
まさかの反応に動揺して、ただ目をかっぴらいている私にキースさんは恥ずかしそうに顔の前に人差し指を立てた手を持ってきた。

「よかったら、もう一度呼んでくれないかい?」

“え”に濁音がついた“え゛”みたいな妙な音が喉のところでした。
さっきまで普通に呼んでいたのに、改めてお願いされると途端気恥ずかしさを覚える。キースさんの顔色がうつった ように顔に熱が上った。名前を呼ぶだけ、それだけなのに極度に緊張した時のように喉がカラカラになった。

「キッ、」

声が引っくり返る。名前を呼ぶだけ。それだけだって分かっているのに、キースさんが期待した表情で私を 見下ろしているのが悪い。降り注ぐ視線から私は少しでも逃れようと俯くが、それでも旋毛に視線を感じる。 手が極度の緊張のために汗でぐっしょりと濡れて、心臓が通常の倍くらいの速さで動いている。

「...キースさん」







(20121005)