「やあ、おかえり」
「あ、ただいまです」

 ちょうどマンションから出てきたらしいキースさんとジョンと鉢合わせし、頭を下げて挨拶を返した。
 どうやらこれから夕方の散歩に出掛けるところらしい。すでに顔見知りで、会うたびにジョンを撫でているので、 ジョンのほうもどうやらこいつは自分のことが好きみたいだ、と認識しているのか、すぐに尻尾を振りながら寄ってきてくれる。 ファンサービスがすごい。

「いってらっしゃい」

 いつもの朝と反対の言葉を、ジョンの頭を軽く撫でながら口にする。

「いってくるよ。さぁジョン行こうか」
「わふ」

 尻尾をふりふりして全身で喜んでいる後姿に、思わず口角が上がってしまいながら見送った。
それに気づいたキースさんが律義に振り返って手を振ってくれたので、慌てて顔を引き締め、ぎこちなく手を振り返した。


「あれ?」

 エントランスで鍵を取り出そうとしたところで、いつもある場所にそれがないことに気づいた。 ごそごそと鞄の中身をかき回して中を覗き込んでみるものの、それらしいものが見当たらない。サッと血の気が引いた。

 運よく家の中に入れないかと、マンションの住民がエントランスを突破する隙に一緒に中へと入るところまではうまく行った。 が、扉の前で呆気なくも詰んでしまった。硬く施錠された扉はびくともしない。
都合よく今日はお父さんが早く帰って来ていて開けてくれたりしないだろうか、という期待はあっけなく外れてしまった。

「はぁ、どうしよ……」

 思わずため息が漏れる。
 認証登録しておけば端末を持っているだけで部屋に入れるのだが、まだ引っ越してきて一月なのでその登録も出来ていないのだ。 鍵を持っているのでそう急ぐ必要もない、と後回しにしていたツケがここで回ってきたらしい。 とは言っても、今回のは完全に私の不注意なんだけど……。
お父さんから何度も「鍵を忘れたら締め出されることになるぞ」と口を酸っぱく言われていたというのに……。
 昨日鞄を変える際に入れ忘れたのだろう。荷物を詰め替えてる途中に友達から電話がかかってきたので、すっかり忘れてしまっていたらしい。 ここにあるはずだった鍵は、まだきっと鞄の中だろう。
 お父さんが帰って来るまではまだ時間がある。ここで待っているのには時間がたっぷりあるし……。
だからといって友達の家に行くには場所が離れている。 前に住んでいた家ならそこまで遠くはなかったが、ここに引っ越してきてから物理的に距離ができてしまった。
きっと事情を話せば快く迎えてくれるだろうが、今の時間帯だと確実にご飯時にお邪魔してしまうことになるので避けたい。
 とりあえず近くのカフェで時間を潰そうと決めた。

「はぁ……」

 完全に自分の所為なので怒りを向けることもできず、ただただ落ち込んでしまう。 重い足取りで歩き始めれば、思わず重いため息が零れた。

「おや、また出かけるのかい?」

 マンションから出たところで、前方からかけられた声に顔を上げる。
 ついさっき鉢合わせした見慣れたコンビだ。

「私は忘れ物をしてしまってね。途中だが帰ってきたんだよ」

 散歩を終えるにしては早いんじゃ……そう思ったのがどうやら顔に出ていたらしい。
少し恥ずかしそうに頭をかきながら説明してくれたキースさんに、気分が落ち込んでいたこともあって「そうなんですか」と愛想のない返事をしてしまう。 だが、気にした様子もなくキースさんは「ジョンのうんち袋がラスト一枚だったんだ! 一枚で済むとは限らないのにね。
今日の朝散歩に行ったときに忘れちゃいけないと思っていたのにうっかりしていたよ」とジョンの大便事情を話してくれた。
 隣で飼い主が自分の大便事情をぺらぺら話しているというのに、ジョンは気にした様子もなく笑っている。ものすごく心が広い…!

「それで? 彩くんはどこかに出かけるのかい?」

 不思議そうにこちらを見つめてくる青い瞳から逃れようと目が泳いでしまう。

「はい、まあ……」

 出かけたくて出かけるわけじゃない。だからといって事情を全て話すほどに親しい仲というわけでもないので、返事は曖昧なものになってしまった。
誤魔化すように笑いを浮かべ、この場をやり過ごすための返事をけれど意外なことにキースさんは指摘してきた。

「……どうしたんだい? 何か困ったことでもあったのかい?」
「え?」
「私でよければ話してみないかい?」

 神妙な表情で眉根を寄せて話しかけてくる表情は、本当にこちらを心配しているようだった。 そんなに親しいわけではなく、ただ同じマンションに住んでいて時々挨拶を交わすくらいの関係でしかない私のことを心配してくれている。 その事実に落ち込んでいた気持ちがわずかに上がってきた。

「あの、家の鍵を忘れちゃって……」
「学校に?」
「いえ、家の中に……それで締め出されちゃいました」
「それは困ったね。お父さんはまだ帰ってこない?」
「と、思います……」
「そうか……」

 困った様子のキースさんに、胸の内に沸き上がって来る感情は後悔と申し訳なさだ。
 さっき少し上昇したはずの気持ちが、しゅるしゅると下降していく。
事情を明かしてしまい、こんな面倒なことに巻き込んでしまったことを後悔してしまう。
さっき誤魔化してそのままカフェに行けばよかった、と申し訳なさで顔を上げられず、キースさんの横でちょこんと行儀よく座っているジョンを眺めながら思ってしまう。
 これからカフェに行こうとしていたところだと話そうと意を決して顔を上げたところで、こっちを見ていたキースさんと目が合った。

「それなら提案があるんだ! うちに来るのはどうかな!」
「……え?」
「いい考えだと思うんだ! 以前からジョンは彩くんに遊んでもらいたがっていたからね!」

 本当にいいことを思いついた様子できらきらした目で詰め寄られ、思わず上半身が仰け反る。

「うちに来てジョンと遊んでやってほしい。だめかな?」

 その表情からは「こんな面倒ごとに巻き込まれてしまった」という嫌々感もないように見える。 本当に好意として誘ってくれているのだろう、とあまり付き合いがあるわけじゃないけれどわかる。

「ハッ! もしかして予定があった……?」

 眉を垂らしてこちらを覗うような顔をしているキースさんは、見るからに悲しそうだ。言葉と表情のリンク率が100%だ。

「いえっ! ないです…!」

 思わずこちらも釣られてオーバーなリアクションで頭を振ってしまってからハッとする。

「それなら決まりだ! ジョン! 彩くんに遊んでもらえるよ!」
「わほっ!」

 一人と一匹が嬉しそうに声を上げる様子に、完全に断りそびれたことを悟った。
――本当にお邪魔してもいいのかな……迷惑じゃないかな。
そんな私の心配をよそに、キースさんとジョンは足取り軽く部屋へと歩きだしてしまった。






(20210508)