まだ完全に夢から覚めない頭でぼんやりしながら家を出て、あくびを噛み殺しつつ私は学校に向かった。 梅雨明けして本格的に夏に入ろうとしている今の時期、朝とは言え太陽から放たれる熱と光りは十分に熱い。はぁ、と知らずため息が零れた。


いつも通りの一日を過ごし、家までの道のりを歩いてると昨日おばあさんが店を開いていた場所を通りかかったが、 今日は何も無かった。昨日が普通ではなかったのだと納得し、何も無い空間を見つめながら、私はおばあさんとの 約束を思い出して何となく早足でその場を離れた。
家に帰りつくと二階に駆け上がり、自分の部屋の前に置きっぱなしにしていた鏡を手に取り、部屋に入る。
机の上に鏡面を下にしたまま置いて、心の中でおばあさんに忘れてたわけではないです。と勝手に出てきた言い訳を呟いてから 制服を脱いで適当な服に着替え、携帯を持って下に降りた。
小腹が空いたのだけれど晩ご飯まで待つにはまだ時間があるし、ちょっとだけ何か食べたい。この間食をやめれば少しは デジタル板に映る数字が小さくなるであろうことは分かっているのだけれど、やめられないから困っているのだ。いつも後悔するのは体重計に乗ってからだ。



後は寝るだけだと、寝る準備が整った私は自室に戻った。
電気を付け、部屋の中が明るくなると、真っ先に机の上の鏡が眼に入る。 意図せずに喉がごくりと音を鳴らした。嫌でも思い出すのは昨日見た光景だ。昨日は無理やり結論を出して自分を 納得させようとしたが、一日経った今では昨日の結論に無理があった気がしてならない。それでも気のせいだった と思考を無理やり断ち切ろうとするが、それをさせない自分もいる...。
これはやはり確かめなくてはいけないのだろう...。
確かめるのも怖いけど、確かめないのはもっと怖い。厄介な感情に悩まされながらも、この元凶の鏡を買わなければ と後悔することは不思議と無かった。
ごくっ、またしても喉が鳴った。
それが合図だったように私は意を決して、勢いをつけて机の上の鏡を手に取った。
腰が引けながらも、手には鏡を 握っている。端から見れば間抜け以外の何者にも見えないと思うけれど、やってる本人は真剣そのものだ。お風呂に 入ったばかりだというのにじんわりと汗が浮き出てくる。深呼吸を繰り返して、いつまでも整いそうにない心の準備を 終わらせ、私は掛け声を上げた。

「いっせー―――のーで...!」

無駄に長く“せ”と“の”間を伸ばして時間稼ぎをしてから、手の中の鏡をくるっと回してこっちに向けた。
結果、鏡には目を見開いた私の顔しか映っていなかった。

「ほらね、やっぱり」

ホッと息をついてから誰に向けるでもなく呟くと、まるで勝ち誇っているかのようにそれは聞こえた。
ほらね、やっぱり何でもないんだよ! 力が入り強張っていた全身の力が抜けるのを感じた。
昨夜と同じ結論を今度こそ私はすんなりと飲み込むことが出来た。
浮かれた気分でこのムッとした空気を消すためにエアコンのスイッチを入れてからベットに飛び乗り、本来の鏡の使い方である、自分の顔を映した。口元が緩んでいて、見るからに 嬉しそうな顔が映っている。少し乱れている前髪を手ぐしで整えながらようやく鏡としての本来の使い方が出来ていることに私は満足した。
左手に鏡を持っていると徐々に手がだるくなってきた。一度ベットの上に置いて、手を振ってからもう一度鏡を 掴む。そして持ち上げた鏡に埃がついているのに気付き、私はそれを取るために鏡面に手を伸ばした。そして、 指が触れたと思った瞬間それは起こった。
まるで水面に触れたかのように鏡が指を中心にして波打った。
普通ではありえない光景に 驚いて手を離すも、鏡面はまるで水面に変わったかのように、静かに輪が広がり波紋を描いている。
とても信じられない光景に私はどうすることも出来ず、唖然と鏡を見つめ続けていた。相変わらず波打ったままだが、 わずかに私の顔が映っていることに気づいたとき、今まで波打っていた鏡面が光った。雨上がりの晴れた日に、 道に出来た水溜りが光を反射する、あの時の光に似ていた。微弱だけど強い光り。 眩しくて目を閉じると光ったのは一瞬だけだったようで、瞼を通して光が無くなったことに気付いた私は恐る恐る目を開けた。
そして、驚きすぎて声にならない悲鳴を上げた。
鏡を落とさなかったのを褒めて欲しい。私はこの鏡を自分で思っているより気に入っているらしく、落とさないよう 咄嗟に鏡を握る手に力を入れていた。だが鏡からは距離を取りたい、自分で握っているのだから矛盾した行為だと思ったが 私は体から鏡を離すために出来るだけ遠くに手をつっぱねた。
鏡はもう波打っていなかった、けれど私の驚いた顔も映っていない、だけど何も映っていないわけじゃない。

「...誰?」

もう限界だった。
鏡は水面みたいになるし、その上に急に光りだすし、それに目を開けたら知らない男の子が映りこんでるし!  それにそれに、まるでテレビ電話してるみたいに私に向かって、誰? とか話しかけてくるし!  そっちこそ誰?! 鏡の住人?! 幽霊?! ...っていうか、ていうか、

「ぎゃあああああ!!」

私は軽く近所迷惑な叫び声を上げながら立ち上がり、無意識に鏡を割らないようにそっと机の上に置いた。
その一瞬に鏡の中の男の子が驚いているのが見えた。まるで私の突飛な叫び声に驚いているような反応に私はまた驚きながら鏡から距離を取るために後ずさった。 どきどきと心臓が胸を突き破って出てきそうなほどに激しく動いている。そのまま何も行動できず固まっていると、 いつの間にか騒ぎを聞きつけてやってきていたらしい母が後ろに立っていて、私は「ひっ...!」と声を上げながらその場で飛び上がった。


近所迷惑になると叱られて、私はそこでやっと少し冷静さを取り戻していた。そして今体験した恐怖体験を話した。 ...といっても、上手く説明出来ずに「男の子! 鏡!」とか、言葉を覚えたての原始人みたいな状態だったので、 母は意味が分からなかったのだろう。それでも「鏡」といキーワードと机の上の鏡を見て怯えている原始人状態 の娘を見てこの騒ぎの原因が鏡であると分かったらしい。怖がる様子も無くさくさくと鏡に近寄ると、覗き込んでいる。
私はそれを息を詰めて見守っていた。緊張して張りつめている空気の中、私が唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。

「何も無いけど」

あっけらかんとした物言いに私はすぐさま「そんな馬鹿な!」と反論した。

「けどさっき!」

近づいて恐る恐る覗き込んだ鏡には母の言うとおり何も映っていなかった。もちろん覗き込んでいる情けない顔をした私は映っているけど、 私が先ほど見た男の子が居ないと言う意味だ。
何の変哲も無いただの鏡を前に唖然とする私を置いて母は部屋を出て行ってしまった。

「寝ぼけてないで早く寝なさい」

寝ぼけてたんだったらそれって寝てるんじゃないの? いや、それとも眠る直前の状態?
現実逃避するように頭が言葉尻を捕らえて考え始めたが、バタン、とドアの閉じた音でようやく頭がこの状況を把握した。
鏡と二人きり...
私は大慌てで鏡を譲ってもらった時におばあさんに巻いてもらった赤い布を拾って鏡の上に乗せた。
その夜は安眠できなかった。
いつ鏡の中から男の子が出てきて私に襲い掛かってくるのか想像するのに忙しかったから。







(20120804)