もしかしたら幽霊じゃないのかもしれない。
幽霊の正体であった“くくちへいすけ”はその出で立ちを除けば普通の男の子のように私には感じた。
ミッキーはねずみじゃない、というくだらない会話はけれど友人と話しているようでもあったし、あまり大きくは変化しない 表情はだからと言って全然動かないわけでもない。
これは確かめてみなくてはいけない。

「何してるんだ...?」
「塩をかけてる」

もう三度目になると慣れたもので、私は波紋の出来た鏡面を見ても叫び声を上げたりもしなかった。ただ緊張は するので、喉はごくんとは鳴った。光が収まると二度あることは三度あるというのはこの場合には当てはまらない とは思うけれど、昨日と同じように鏡には男の子が映っていた。けれど昨日より事態は進んでいる。
私は男の子(幽霊かもしれない)と自己紹介を済ませていたので、彼がくくちへいすけと言う名前であることを知っている。そして自称生きてる人。そしてミッキーを知らない。

「あぁ、これ塩なのか」

冷静に自分の目の前の結晶が塩であると納得したかと思うと、遅れて「けどなんで?」という疑問が投げかけられる。 もしかしたら彼は少しずれているのかもしれない。塩の粒によって徐々に見えなくなる姿を見つめながら、なおも 塩をぱらぱらとふりかける。彼の顔が完全に隠れると白装束と背後の真っ暗しか見えなくなった。

「苦しい?」
「別に」

彼の問いかけには答えずに、新たな問いを彼に投げかければ気を悪くした風でもなく答えが返って来る。 それが嬉しいような、ちょっと悔しいような気持ちでもう一度だけ質問を繰り出した。

「なんかこう...魂が清らかになるような、そんな気分は?」
「しない」

ばっさり一刀両断された私はまたしても嬉しいのか悔しいのか分からない感情がぐるぐると胸の中を動き回るのを 感じた。安堵したような、残念なような...相対する感情が同時に湧き上がるのは気分のいいものじゃない。 自分で自分が分からないような錯覚にぼんやりと鏡を見ていると、塩の向こうから声が聞こえた。

「終わった?」
「うん」
「じゃあこれどかしてくれないか」
「あ、ごめん」

思わず謝りながら私は鏡の上に散らばった塩を袋の中に片付けた。すっかり片付いた鏡には“くくちへいすけ”がいて、こちらをじっと見ている。 まっすぐ遠慮のない視線を向けられて私は居心地が悪くて思わず視線を泳がせた。何でこっち見てるの、本当は そう尋ねたいはずの唇は、けれど気付けば誤魔化すような言葉を紡いでいた。

「...昨日は急に消えたけど、どうしたの?」

昨日ねずみの話をしていたと思うと、突然何の前触れも無く“くくちへいすけ”の姿は消えて、鏡はただの鏡に戻った。
本当に突然のことに私は目を何度か瞬いたけど、鏡は何の変哲も無い鏡でしかなかった。突然掻き消えた話し相手に、私は少しばかり不満を覚えた。
「あぁ」鏡の中から聞こえた声は低く響き、私の鼓膜を揺らした。

「呼ばれたから鏡を伏せたんだ。そしたら消えてた」

何でもないように答えられ、私も「そっか」としか答えられなかった。
誰に呼ばれたんだろう。お母さんとか? その質問を口にするのは憚られた。距離感が曖昧なのに、それは近づきすぎる気がする。
何も分からないふりをしてテリトリーに足を踏み入れることは簡単だけど、そうすると私に対しての評価が下がることもまた分かりきったことだった。 どこまで踏み込んでもいいのか。距離を測りながら、それと同時にそんな質問が浮かんだことに今更驚いた。
もう私は彼のことを幽霊とは思っていない。

「ごめん。急に消えるつもりは無かったんだけど」

妙な沈黙を破ったのは向こうだった。もしかしたら私が怒ったと思い、この沈黙が気詰まりになったのかもしれない。 実際には巡る思考に身を預けていただけなのだけれど...。だが、思考は霧散した。 思いもしない謝罪に私は吃驚して鏡を見つめた。
正確には鏡の中の男の子   くくちへいすけを。

「聞いてる?」

私が反応しなかったので、眉を顰めて訝しげに尋ねられる。私はそこでハッとして壊れた人形みたいに何度も頷いて見せた。

「聞いてる聞いてる!」

かくかくと何度も頭を振る私に“くくちへいすけ”は大きな目をそれ以上に見開いた。だが、すぐにその目は柔らかく細められた。 それからふっと息を吐いて、相好が崩される。
   笑った!
小さくだけれど確かに笑っている。大きな目は細められて、唇も弧を描いている。その姿に私は衝撃を受けた。 硬いと思われた表情が柔らかく変化したのを目に写し、一瞬息が詰まるような心地になった。 彼が笑わないとでも私は思っていたのだろうか? 吃驚している自分自身に対してそんな言葉が頭に浮かんだ。
きっと幽霊はこんな風に笑わない。私はもう確信していた。彼は幽霊じゃない。
衝撃を飲み込み、同時にくくちへいすけに対しての疑惑が解けたこともあってつられるように私も自然と笑みが浮かんだ。 何でだか、この見ず知らずの鏡の中の男の子が笑ったことが嬉しくて、私はついつい上がり過ぎそうになる口角を 無理やり押さえ込んだ。今度はそんな私に驚いたように鏡の向こうの顔が軽く目を見張っている。
もしかしたら私が思っていたように、向こうも私のことを幽霊だと思っていたのかもしれない。
どちらにしても“得体の知れない何か”だとは思われてそうだ。
本当の意味で空気が軽くなったのを感じた。昨日、ねずみの話をしていた時も空気は確かにそれ以前よりは軽くなっては いたのだけれど、やっぱりどこかお互いを警戒してる感じが無かったわけではない。それが今は無くなった気がした。
隔たりが無くなったような、そういう空気。

「昨日はごめん」
「...なにが?」

今がチャンスだと考えて投げ込んだ言葉は、不思議そうな表情をした鏡の向こうの男の子に拾い上げられて聞き返されてしまった。 今の雰囲気ならさらっと流してくれるかもしれないという打算があって、今のタイミングを選んだというのに、 そう簡単に事は進まない。私はバツが悪くなって俯いた。本当は鏡の向きも私が映らないようにそっぽ向けたいところだ。

「なんか、その、急に怒って...」

自分から蒸し返したくせに、この話はやっぱりやめとけばよかったなんて考えていた。昨日のあれはどう考えても 恥ずかしすぎる。一方的にキレた私とは反対に、鏡の中の男の子は冷静だった。鏡を隔てて温度が対照的で、私ばかり熱くなっていた。
「あぁ」声音からは感情を読み取ることが出来ない。彼が今「ほんとに迷惑だった」と思っているのか、 「そんな日もあるさ」なんて心の広いコメントを頭に浮かべているのか、私は注意深く読み取ろうとしたけど、 それをさせてはくれなかった。沈黙が流れる。先ほどとは打って変わって、空気は軽く無い。

「俺も...悪かったし」

思ってもいなかった言葉に私はパッと顔を上げた。鏡の向こうでは私の視線から逃げるように視線を下に向けている くくちへいすけが居た。

「...うん」

どう考えても私の方が悪いと思う。彼の言葉を聞こうともせずに勝手に幽霊だって決め付けてた。 態度は向こうも悪かったけど、比率にしたら8:2ぐらいだろうか。(もちろん私が8だ。) だけどわざわざそう言うこともないと思って私は頷いて返した。
顔を上げた。視線が合う。どことなく照れくさいような、変な空気が流れる。
仲直りしたばっかりみたいなちょっとぎこちなさを残しながらも雰囲気の尖りが丸くなっていく感じ。 変な感じだ。だって私たちは会ったばかりで、仲直りするほど仲が良かったわけじゃない。それなのにこの空気。

「...じゃあ、また」

気詰まり、とまではいかないけれど、少しずつ酸素が薄くなってくるようなこの空気に耐えかねた私は突然の会話の 打ち切りを試みた。焦ったまま特に意味も考えず、衝動のままにするりと出た言葉は次を想定したものだった。

「あぁ、また」

自然に鏡の中からも同じように次を匂わせる言葉が返って来る。私はそのことに小さな衝撃を受けた。 まさか同じように返してくれるとは思ってなかった。けど私がちょっと驚いているのを見ても、特に表情は変化せずに飄々とした様子だ。
気に入らないなぁ、子供染みた感情が湧いた。

「...おやすみ」

子供染みた感情を悟られたくなくて息と共に吐き出したおやすみは密やかに空気の中に染み込んだ。 静かな空間に合わせるように、私の声も静かなものだった。鏡に向かって手を上げて見せると、本来の鏡のように 向こうも手を上げた。それも私が右手で、向こうは左手だったのでちょうど対称になっている。 そのことに小さく笑うと、不思議そうに首を傾げられたので私は説明する意味を込めて右手を緩く結んで...開いて、という動きを何度か繰り返してみせた。
「鏡みたい」最後に一言付け加えると私の言いたいことが伝わったようで、「ホントだ」と返って来る。 そうすると私の右手と同じ動きを鏡の向こうの左手も返してきた。

「おやすみ」

緩やかにカーブを描く唇が印象的だった。







(20120930)