“また”が、次の日とは限らないけれど私は勝手に次の日を指しているのだと思っていた。
昨日おやすみを言ってから鏡を机の上に置くと、鏡面が波打ったかと思うと次の瞬間には鏡は普通の鏡に戻っていた。
どういうシステムになってるんだろう、気になるところではあるけどそれ以上に気になるのは鏡の向こうの男の子の存在だった。 名前はくくちへいすけ。髪が長い。綺麗な顔をしてる。ちょっとずれてる。幽霊じゃなくて、人。
私が知ってる鏡の向こうの男の子についての情報はこれくらいのものだ。あ、それとミッキーを知らない。
それは向こうも同じだろう。
昨日で一応わだかまりみたいなものも無くなり、私の中にある感情はただただ鏡の中の男の子ことが気になるという ものだけだった。気になるというか、興味があるというか...この不思議な出会いについてで私の頭の中はいっぱいだ。
いつも通りの一日を過ごしてから足早に帰って来て着替えもせずに急いで鏡面に触れてみたけれど、期待とは裏腹に 私の指紋がついただけだった。考えてみれば夜だけしかあの現象は起きなかったことに気づき、私は一つ目のシステムを知った。
その日の夜、私は早速お風呂から上がってすぐに鏡を手にとった。けれど私の予想は外れて、またも鏡には私の指紋が ついただけだった。ついでにほかほかと湯気を立てる体のせいで鏡は曇ってしまった。
夜になればいいのだと思っていたけれど、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
曇った鏡を前にどういうことなのかうんうん考えてみて一つ気づいたことがある。私が鏡に触れて男の子が現れたように、 向こうも鏡に触れないと繋がらないのかもしれない。電話と同じような機能で、ボタンを押さないと通話出来ない ...みたいなことじゃないだろうか。けどそれだと呼び出し音が鳴らないと発信中だとも受信中だとも分からない。
そこは私の都合なのだけど、やっぱり不便に感じてしまう。携帯を弄ったり、雑誌を読んだりと寝る前の時間を 過ごす片手間に鏡に何度か触れてみたけれど、その日はとうとう鏡の中に男の子が現れることは無かった。


勝手に“また”があるものだと思っていた。だけどそんな保障はどこにも無いのだと唐突に私は気づいた。
私は学校からの帰り道、あの日おばあさんが居た場所を見つめながら考えた。蝉がうるさく鳴いていて、ついでに言えば 背中に太陽の熱が当たって熱かった。もうすぐ夕方になるというのにまだ蝉も太陽も頑張っている。
鼻の頭に浮き出た汗を手で拭いながら思った。今までが偶然だったのなら、これからも偶然が起こるとは考えてはいけない。偶然は当たり前に起こるものじゃないから偶然なんだ。
   もしかしたらもう会えないのかもしれない。 そう考えると不思議と胸がきゅっと萎んだような感覚がした。それの正体が寂しさのようなものであることに気づいて小さく息を吐く。
私はいつのまにか鏡の中の男の子に親しみを覚えていたのかもしれない。

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その日の夜。自分をそうやって納得させていたので、期待せずに鏡面に触れた。...多分もう会えないだろう。 そう思っていたというのに指が触れたと同時に見慣れた俄かには信じられないことが鏡に起こった。
眩しさに目を瞑ってからそろそろと目を開くと、この間の夜と変わりない様子の男の子が鏡の向こうに居た。
もう会えないのだと思っていたのに。面食らって固まる私を気遣う様子も無く、向こうは「やぁ」とでも言うように軽く手を上げる。 私は心の準備も何も出来ていなかったので咄嗟に何も言葉が出てこずに間抜けに「...おはよう」と時間のずれた 挨拶を返した。するとぱちぱちと何度か瞬きした大きな目が私の背後を物珍しそうに見た。

「おはよう、なのか? やっぱりそっちは」
「え?」

予想していなかった言葉に意味が分からずに問い返すと、私を通り越して背後に向けられていた視線がスッと私に向けられる。

「だって明るいだろ」

そこでようやく何を言いたいのか分かった。背後を見ていたのは多分明るさを見ていたのだろう。 蛍光灯に照らされた部屋の中を彼は物珍しげに見ていたのだ。
電気を知らないんだ。さっきの様子からも人工的な明かりを見るのは初めてのようだった。 私が普通だと思っているものを知らない。パチ、とパズルが合わさったように私は理解した。この間掴みかけて、 掴み損ねた答えを今、掴むことが出来た。だけど本当にそれが正解なのかどうかは答えあわせしてみないと分からない。
「...まぁ、変な明るさだとは思ってたけど」耳に届いた言葉に私の意識は強制的に浮上させられる。私が黙っている ことに何か思うところがあったらしく、鏡の中の彼は続けて言葉を紡いだようだった。

「や、こっちも夜だよ。だから本当はこんばんはなんだけど間違えて...」
「間違えた?」

ごにょごにょと小さくなっていた言葉の意味に気づいて欲しかったけど、いや、もしかしたら気づいて知っててなのかも しれないけども、流して欲しいところを捉えられてしまった。その声が笑いを含んでいるせいで私の頬は熱を持った。

「電気で明るいだけ」

頬の熱を誤魔化そうとして早口で声を張り上げた。

「でんき?」
「うん。えーと......このスイッチを押したら電気が点いたり消えたりするんだ」

ドアの横に設置されているスイッチを鏡に映して見せ、説明したとおりに押した。ぱち、と小さい音がしたと思うと、 部屋の中が真っ暗になる。「...おぉ」手に持っている鏡の中から驚いている声が聞こえて私はこっそり笑った。 さっきまで明るい中に居たものだから中々目が慣れず、その表情を確認できないのが残念だ。
もう一度スイッチを押すと、パッと部屋の中が元通りに明るくなる。「眩しいよ」鏡に向かって話しかけながら握っている 鏡の鏡面の部分を直接光りが当たらないように斜めに角度をつけて天井に向ける。

「あれが電気」
「...こんなの初めて見た」

鏡を手に持ってまた元の位置  ベットに腰掛け鏡をくるっと回してみると、眉根を寄せて何だか難しそうな顔をした男の子と目があった。 ...何だか嫌な予感がする。

「どういう仕組みで光ったり消えたりするんだ?」

やっぱり、嫌な予感は当たった。私は「え、」の形で口を固まらせて、難しそうな顔をした男の子とたっぷり見詰め合って、 おそろしく睫毛が長い事を発見してから目を反らした。
電気の仕組み? 電気の仕組みって何? 何か習った気がするけどそんなもの覚えてない。テレビで果物からも電気を起こすことが出来るとかこの前やってるのを見たけど...電気の仕組み...?

「知らないのか? いつも使ってるのに」

どう考えても頭の中の引き出しには答えは無いようだという結論に行き着いて黙り込んでいると、少し呆れたような 声で追い討ちを掛けられた。その上後半の一言でとどめをさされた。

「...知らない」

渋々知らない事を認めれば「そうか」とだけ返って来る。どうにも嫌な雰囲気に私は慌てて話題を逸らすことにした。

「そっちは? えっと、そっちは電気の代わりに何を使ってるの?」
「油だな」

油? 電気の代わりに油を使っている映像がうまく想像できずに居ると、懇切丁寧に説明してくれる。私とは大違いだ。 油に灯心用の木綿なんかを浸してそこに火を灯すというのが一般的らしい。油の中にもランクがあって、一番いい油は菜種油で一番安価 な油は魚の油らしい。魚の油は魚とついているのだから当然魚の匂いがするらしい。
それらをつらつらと淀み無く説明してしまったことに驚きながらも関心していると怪訝な顔で「...なに?」と聞かれる。

「や、すごいと思って。よくそんなに覚えてるね」

教科書に載っていそうな説明に素直に思ったまま感嘆の言葉を紡ぐと大きな目がもっと大きくなり、ふいっと目を逸らされた。

「別に...普通だよ」

不自然な顔の向きに私は首を傾げ、また思ったままに言葉を紡いだ。

「照れてる?」
「...照れてない」

むっつりと返された言葉に思わず笑ってしまった。すると、そっぽを向いていた顔がこちらを向いたと思うと文句ありげに 太い眉の間に皺が寄っている。少し恥ずかしそうな表情がますます笑いを誘う。意外に人間臭く、今まで見た表情の 中では幼く感じる態度に親近感が湧いた。どこか大人びている...冷静、あまり取り乱さない、それが私が彼について抱いている印象だ。
私たちが鏡越しに初めて会った時でさえ取り乱さなかったのだから私の見解は間違ってはいないと思う。 咄嗟の反応には人の性格が深く関係していると思う。それに比べると私は情けないほど取り乱していた。苦い気持ちで 初対面の時の事を思い出し、そういえばと私は頭に浮かんだ一つの疑問を口にした。

「そういえば、えっと、...年いくつ?」

“くくちへいすけ”名前は知っているけど、今更名前を呼ぶのも何だか照れる感じがしたので、名前は呼ばずにぼやかした。 別段それに気付いていない様子で“くくちへいすけ”は、表情を普段の考えが読み取れないものへと変化させる。

「同じくらいだと思うけど十四。は?」
「えっ! はっ、14...って、えっ!!」

14才という衝撃を受けたあとに、また一つ大きな衝撃を受けて私はぎょっとして鏡を見つめた。
二度の大きな衝撃を受けて思考が停止していると、鏡の向こうで私に衝撃を与えた本人が楽しそうに喉で笑った。 くつくつ喉を鳴らしながら口元を拳で隠し、大うけしている“くくちへいすけ”に、停止していた思考が動き出した。 てっきり同じ年ぐらいだと思ったのに、年下...14才と言えばまだ中学生だ。......詐欺だ!

「...17」

今度は“くくちへいすけ”が驚く番だった。鏡の向こうで元々大きな目をもっと大きくして驚愕の表情を浮かべる 姿に私はちょっと胸がすく思いでにんまり笑った。だがすぐに、待てよ? と首を傾げる。今回の場合の驚きは私が17才には到底 見えないからというもので...さっき同じ年くらいだと思うと言っていたところから考えて、私は14才くらいに見られて いたということだろう。辿り着いた結論に、馬鹿みたいににやついている場合じゃないと気付いた。

「十七...?」
「17!!」

到底信じられないと言いたげな視線と言葉に、私は力強く噛み付くように言葉を返した。
それでもまだ疑わしげな視線を送ってくるのが気に入らなくて、私は少し眉間に皺を寄せながらやり返しをしてやりたいと考えた。 このままやられっぱなしじゃ気がすまない。
この疑り深い年下を驚かせてやりたくて、私は憮然と言い返した。

「いつまで驚いてんの。......へいすけ、くん...」
「...」

今更名前を呼ぶことに対しての照れの所為で私の声は小さかった上に“へ”が妙に高い音になってしまった。その上に、 呼び捨てにするかどうかの迷いと気後れで、名前と敬称の間に妙な間が空いてしまった。
鏡の中から視線を感じ、私は殆ど反射的に顔をサッと逸らした。
仕返しをするつもりだったのに、これじゃ自爆だ。徐々に顔が熱を持ち始めるのを感じて私は仕返しなんて馬鹿なこと 考えなきゃよかったと早速後悔した。

「照れてる?」
「照れてない!」

そっくりそのまま、さっきの私の台詞を投げ返すという意地の悪さに私の体温は上昇する。
この私の反応はきっと満足のいくものだろう。やりかえすつもりが、反対にやられて私はとんだ赤っ恥だ。







(20121128)