「ダダダダダダダ...」

鏡が光りだしたタイミングで私は鏡を持ち上げた手の位置はそのまま、体だけをしゃがみこんだ。 兵助くんから見てみれば私の部屋が見えているだけだろう。
雰囲気を出すためにドラムロールを真似た音を口ずさむも、鏡の中からは何の声も聞こえない。
まあこれはある程度予想していた。兵助くんが「なんだなんだ?!」とか大げさすぎるリアクションをしてくれるとは思っていなかった。 だって初めて会ったときでさえリアクションが薄かったのに、これくらいのことじゃ期待できるほどのリアクションをしてくれるわけが無い。 だけどこんなことをしているのはどうせなら楽しくしたかったからだ。といっても、楽しんでるのは主に私なんだけども...。 口元が緩むのを抑えられずにしつこいほどドラムロールを続けていると、ようやく痺れを切らしたように「もういいから」という兵助くんの声が聞こえた。 そろそろ手が疲れてきたこともあり、私はその兵助くんの声を合図にして頭上に掲げるような形になっていた鏡の前に文字通り飛び出た。

「じゃーん!!」

私が下から出てきたことに兵助くんが驚いたのかどうかは、視界が揺れていたこともあって確認することができなかった。 だけど覗き込むように見た鏡の中で、兵助くんは笑っていた。
笑っているって言っても、控えめな笑い方であることは変わりが無いんだけど私がしたことに笑ってくれているということが重要なんだ。

「びっくりした?」
「いや、別に」
「おもしろくないなー」
「下か横から出てくると思ってたからな」

淡々とした兵助くんの返答に、勝手に眉根が寄ってしまった。私の希望としては驚く兵助くんを見たかったのだけど、まあ笑ってくれただけでもよしとしよう。 少しの消化不良を自分で納得させていると、鏡の中の視線がいつも以上に一直線にこちらに向けられているのに気づかされた。 その理由が自分の格好にあることはわかっているのだけど、兵助くんがどんな反応をするのか途端に緊張を覚えてしまった。

「それが変じゃない格好」
「あ、はい。そうです...」
「なんで敬語」

ついつい緊張のために改まった返答をしてしまうと、兵助くんが笑った。今日の兵助くんはいつもよりもよく笑う。
せっかく兵助くんが笑っているレアショットを見れるチャンスなのに、私は変な恥ずかしさがあって鏡を見ることができない。 今までが気の抜けすぎた格好だった所為で、急にこんな気合の入れた格好を見せるというのは恥ずかしいのだ。
それって一応女の子としてはどうなの? と思うけどこの場合はしょうがない。だって出会いからしてイレギュラーすぎた。 そんなことを考えながらも髪が変なことになってないかとかそういうことを考えてしまって、鏡を持つ手にじわじわ汗をかいてきてしまっている。 どんだけ緊張してるんだ! 自分でも思うけど、汗を止まらない。せっかくお風呂に入ったのにこれじゃまたお風呂に入らないといけなくなる。 それにせっかくおろしたワンピースも汗だらけになってしまう。

「いや! なんか今日は暑いですね!」

じっと視線が向けられているのはわかるけど、兵助くんが特に何もいう様子が無いので、沈黙に耐え切れずに声を出してしまった。 それも何だか元気がから回ってる感じで、痛々しい雰囲気が漂っている。
現実ではありえないけど、どばっと汗が吹き出てきそうだ。せっかく薄くだけれど化粧までしたのに、汗でぐちゃぐちゃなんて最低すぎる。

「まあ暑いけど...」

私の必死の会話の糸口をけれど兵助くんはどことなく気乗りしない様子で返してくれた。それというのも、私と兵助が同じ空間を共有していないというのが理由であると気づいたのは、少し経ってからだった。 だめだ、何だかすごく頭の働きが悪い。扇風機を操作して”強”にすると、一気に風が巻き起こり。あっという間に時間かけてセットしたはずの髪がぐしゃぐしゃになった。

「ぎゃ!」

前髪が風に吹かれておでこ全快になってしまったのに思わず声を上げると、兵助くんが鏡の中で笑い声をあげた。

「なに笑ってんの!」

八つ当たりだとはわかっているのについつい言葉は強くなってしまった。だけど兵助くんはそれにムッとする様子も無く、未だに唇に弧を描いている。

「せんぷうきを強くしたんだろ」

今や兵助くんは私の部屋の中にある家電についてよく知っている。あれはなに、これはなに、と答える方はうんざりするほど尋ねられたのだから当然ともいえる。 私が頷いて答えると、兵助くんはまるでクイズに正解したみたいに得意げな顔をした。
そんな兵助くんの顔を見ながら、私は手櫛でどうにか前髪を整えようと試みる。本当は櫛を取り出して直したいところだけど、 なんとなく兵助くんにその場面は見られたくない。
表情はあまり変わることがなくても、どことなく楽しそうな雰囲気の兵助くんとは反対に、私の心は少しばかりささくれ立っていた。 別にこの格好をしたから「きれい」だとか「かわいい」とか言ってもらえるとは思ってない。というか、そんな言葉が兵助くんの口から出てくるのが想像できない。 だけど何か感想のようなものを言ってくれるんじゃないかと期待はしていた。だから何のリアクションもしてくれない兵助くんに、自分から言い出したくせに私は早くもこんな格好をしたことを後悔していた。 いつもみたいな変なシャツでも着ておけばよかった。それならこんな気持ちを感じることもなかった。
お風呂に入ってから髪をブローして、化粧もして...それら全てが何だか無駄になったような気になってしまった。
現金なことに、兵助くんに会うまではノリノリでそれらをやっていたのに(それも自主的に)思うような反応をもらえないと気持ちが沈んだ。 一度気分が沈んでしまうと、回復するまでには時間がかかってしまう。
私としては今日はもうお開きにして、顔を洗って化粧を落として寝てしまいたいところだ。
そうしたことでふてくされた気持ちを誤魔化してしまいたい。自分でも子供っぽいと思った。だけど一度萎んでしまった気持ちをリセットするためには、 寝てしまうしか方法が見つからない。
私が何も話さずに居ると、兵助くんも何も言わずに居た。だけど確かに視線を鏡の中から感じる。黒く大きな瞳がこちらをみているのだと思うと、落ち着かない気持ちになる。

「えーと、...そろそろ寝ようかな?」

いつもならそんなに気になることがないはずの沈黙に耐えかねて声を上げると、兵助くんが驚いた様子で「もう?」と言った。 いつもの感覚なら早すぎる解散だ。だって、まだ何も話らしい話をしていない。その内容が取るに足りないような内容だったとしても、 いつもは何か話をしてから、もうこんな時間か、とどちらからともなくそういう空気になる。

「なんか眠いんだよね。昨日寝るのが遅かったからかも」

寝る時間が遅かったのは嘘じゃないけど、夏休みだということをフルに活用して、起きるのも遅かったのであまり眠さは感じていない。 私の言葉を特に疑う様子も無い兵助くんは「そうか」と呟いた。

「それならしょうがないな」

兵助くんがあっさりと引き下がってくれたことで、私は小さく息をついた。
ものすごく落ち込んでいるわけじゃないんだけど、少しばかり胸が重いような感覚がする。その原因が兵助くんが思うような言葉をくれなかったから、だなんて自分でも認めたくないけど。 だって私って別にそんな繊細キャラじゃないし。

「じゃあ」

鏡に向かって片手を挙げると、鏡の中の兵助くんが何か言いたげな視線を返してきた。
黒く大きな目に少し躊躇するような色を映している。そのことに気づいた私は、言葉を促すように視線を返した。 私が促しているのを感じたらしく兵助くんはそれでも少し躊躇するように視線をさまよわせていたものの、やがて決心したようにこちらを見た。

「それ、似合ってるよ」

すぐには言葉が出てこなかった。意外すぎた言葉に、私は暫し口を開けて固まった。

「...え、あ、...ありがとう」
「うん...」

ぎこちないお礼に、これまたぎこちなく嫌に真面目な表情の兵助くんが頷いた。
じわじわと喜びの感情と照れくささみたいなものが胸の奥から姿を現し始めた。
現金なもので、さっきまでは胸が奥が重く感じていたはずなのに、今では体が軽くてスキップでもしたいような気分だ。 どうしたって吊り上る口角を誤魔化すために唇を噛みながら、このおかしな空気を消そうと思う。

「いや、兵助くんがそんなこと言うなんて思わなくてびっくりしちゃったよ」

意図せず茶化すような言葉になってしまい、鏡の中からは眉根を寄せた表情が返された。その反応さえも気分を上昇させる要素になってしまう。 難しい顔をしている兵助くんは、だけど空気まで硬化させたわけでじゃないので、それが照れ隠しなのだとわかった。 そんな兵助くんをじっと見ながら、私は口元が緩むのを止めることができない。
やがて居心地の悪さに声を上げたのは兵助くんだった。

「...眠い、じゃ」

そして唐突に兵助くんが居なくなって、鏡はただの鏡になった。
こちらの返事を聞く間もなく消えてしまった様子から、よっぽど居心地が悪かったのだろうと想像できた。
私にそれはずるいとか言っておきながらも自分もやってるし。とは思ったものの、別に嫌な気分じゃない。 それどころか気分は良くて、唇はカーブを描いている。







(20130815)