花火が見えやすいようにと思い、部屋の電気を消してからベランダに出た。
部屋から出ると、夏独特の蒸し暑い空気に思わず「うわっ」と声を上げてしまった。
お風呂には後で入ることにしてよかった、と内心思う。こんな中にいたんじゃ絶対に汗をかく。それに、蚊に噛まれるのを防ぐために 虫除けスプレーもしてきた。服はどうしようか迷って、やっぱり部屋着にした。外出用の服を着るという手もあったけど、 なんでそんなにはりきってんの? とか思われたら嫌なので敢えていつも通りにした。
いつも通りとは言っても、いつもの変な動物が書かれているシャツじゃないけど。シャツくらいは洒落たものを着たっていいはずだ。 左手には鏡を持って、右手には携帯を持っていた。サブディスプレイに移った文字は、まだいつもの時間になっていなかった。 だけど脈が速く打っている所為で、いつもより早く時間が経っているように感じる。
私は逸る気持ちを落ち着かせながらベランダに座った。転落防止のために存在していると思われる等間隔に並べられた柵の間から足を出してぶらぶらさせる。 住宅街と言われているここらへんは、家がたくさん建っている。ともすれば当然人だってたくさん住んでいるということになる。 だからここから外を眺めれば、家の中の明かりが漏れていることが多いのだけど、今日は点々としか光が見えない。 一年に一度しかない夏祭りを楽しむために出かけた人が多いのだろう。いつもよりもこの住宅街は静かだから、きっと私の想像は当たっている。 そうして周りの家の様子を眺め、何気なく携帯の液晶を見ていつもの時間よりも少し経ってしまっていることに気づいた。 慌てて左手の近くに置いていた鏡を手にとって、右手で鏡面に触れた。途端まばゆい光が鏡から溢れてくる。
目を開くと、鏡の名から兵助くんがこちらを見ていた。今日はもう寝る準備がバッチリらしく、白い装束を着て髪を下ろしている。

「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった」

謝ると「大丈夫」という簡素な答えが返ってくる。

「あとちょっとで始まるよ」
「うん」

もうすぐ花火が上がる。そう思うと、どきどきした。
左手に握っている鏡の鏡面を私が向いているのと同じ方向に向ける。これで兵助くんからも花火が見えるはずだ。 同時に同じ風景が見えるように私と同じ目線まで鏡を上げることも忘れない。

「ここから見えるのか?」

兵助くんの声がすぐ耳元で聞こえて、ちょっとびっくりした。暗闇の所為で、距離が上手に掴めずに居た。 だけど私がびっくりしたってことは兵助くんには見えていない。

「うん、あんまり大きくは」

見えないけどね。
そう答えようとしたところで、目の前の建物の影から突如、弾が尾を引きながら上ってくるのが見えた。 そして次の瞬間、パッとその弾が花が開くようにして花火が現れた。赤と金色が交じった鮮やかな色のものだ。
...パァン!
遅れて花火が弾けた音が聞こえる。

「あ、始まった」

思っていたよりも大きく花火は見えた。けれどそれでも距離が離れている所為で、いまいち迫力には欠ける。
ベランダに座ったままでも十分見えるものの、立ち上がった方がよく見えると判断し、私は花火に鏡を向けながら立ち上がることにした。 ベランダの手すりに腕を置き、鏡の位置を固定する。私が立ち上がっている間にも、花火は次々に打ちあがっている。 花火が弾けるのよりも少し遅れて、パァンパァンと音が聞こえる。

「きれいだね」

呟きにも似た言葉に返事が来たのは、花火が上げられている途中の休憩だった。
10分から15分ほど花火を打ち上げ続け、少しの休憩が挟まれるのだ。多分今は花火師の人たちは大忙しで次の準備をしているんじゃないだろうか。 私はいつもこの休憩の時間には、忙しそうな花火師の人たちの姿が頭に浮かぶ。海の上に浮かんだ船の上で、大忙しで準備をしている。 いつも通り、今日も私は忙しそうな花火師の人たちの姿を思い浮かべているときだった。

「こんなの初めて見た...」
「え、花火初めて?」
「いや、初めてじゃないけど、こんなにきれいなのは初めてだ」

どこかぼんやりとしている感じの兵助くんの言葉に、私は今兵助くんがどんな顔をしているのかとても見たかった。
だけど鏡の向きを方向転換させるのは変じゃないだろうか、とかを考えてしまって出来なかった。 兵助くんがこちらを見ることができないのはわかっているけど、私は兵助くんが気になっているということを態度には示さないように前ばかりを見ていた。

「絵になってる花火とかもあるんだよ」
「絵?」
「うん、スマイリーとか」
「すまいりー?」

発音が覚束ない感じの兵助くんの言葉を聞いて、私は思わず頬が緩んだ。
兵助くんには見られていないけど、反射的に笑っているのがばれないように頬の内側を噛む。 笑っていることがばれれば、きっと兵助くんはおもしろくないだろう。

「花火上がったら教えてあげるよ」

そんなやり取りをしている間に、花火師たちの準備も終わったらしい。またも音を立てながら上がり始めた花火を眼で追えば、自然と二人とも口を噤んでいた。
.
.
.
「あ、あれがスマイリーだよ!」

次々と上がる花火の中に先ほど話題にした絵を見つけて急いで声を上げた。
早く伝えなければ花火は消えてしまう。だから焦って大きな声を上げながら鏡を持っていないほうの手で、少し潰れかけているスマイリーを指差した。 だけど隣からは「うん?」と、煮え切らない感じの相槌が返って来ただけだった。そうこうしているうちにスマイリーの形をしていた花火は夜空に溶けてしまった。

「あー、兵助くんが鈍くさいから消えちゃった」
「な! 俺は鈍くさく、」
「あ! またスマイリーだ!」

兵助くんの言葉を遮って、また夜空に上がったスマイリーを指差す。私が指差す先ちょうどに、にこにこ笑顔を浮かべているスマイリーが夜空に居る。

「あれ! 笑ってるやつ」
「わ、笑ってる?」
「笑ってる顔!」

明らかに戸惑っている兵助くんの声に、私はきゅっと口角が上がった。
“すまいりー”というものがどんなものなのか、兵助くんはきっと想像もしていなかったのだろう。だから“笑ってる”という言葉に戸惑っている。 いつもあまり表情を変化させることがない兵助くんが声音に戸惑いを滲ませるのは珍しい。
私は”すまいりー”の正体がまだよくわかっていない兵助くんに説明するために、兵助くんに見えるように夜空にスマイリーの絵を人差し指で書いて見せた。 「こういうやつ」と説明する私に、まだ兵助くんはよくわかっていないような返事をした。 「笑ってる顔っていうのがよくわからない」というのが兵助くんの言い分らしい。
そうやって私と兵助くんは二人で次々に夜空に上がる花火を見ていた。
真っ暗な中、花火を二人で見ながら話をするという状況は、何だか錯覚を起こしてしまいそうだった。 暗闇で隣から兵助くんの声が聞こえるという状況は、まるで兵助くんが隣に居るように感じさせる。 それが事実ではなく、私の錯覚でしかないということに私は一人で胸が痛くなるのを感じた。
そのとき、不意に私は気づいた。

   私は兵助くんのことが好きだ。

気になる人どまりだったはずなのに、不意にそれ以上の感情を兵助くんに抱いていることに気づいた。 気づいた、と言うよりも本当は気づかないフリをし続けていたのかもしれない。
自分が兵助くんに惹かれていることを...。だけどわざとそこに目を向けないようにしていたのだ。

「きれいだな」
「うん」

兵助くんの優しい声に頷いて返し、目の前の花火をぼんやりと見上げる。兵助くんの言うとおり、花火はとてもきれいだった。 今まで見た中で一番きれいな花火だとも思う。それは隣に兵助くんがいるからなんだろう、とまで思う。
だけど自分の思いを自覚したと同時に、絶対にこの思いが報われることがないことも悟ってしまった。
   私と兵助くんの時間が交じり合うことは無い。
暗い所為で距離が曖昧になってしまう。だけど明かりに照らされてしまえば、その曖昧な距離が明確な距離を見せ付けてくるのだ。







(20140406)