「着物はこれを着ろ 帯はこれだ」

鉢屋三郎はの部屋の中を我が物顔で物色し、それを唖然と見ていたに何かを投げつけてた。投げられたそれは、ある手順どおりに開封しなければ恐ろしい事が 起こると聞かされた藤の籠に入れられていた着物だった。何でこんな上等な着物を着なくてはいけないんだ、とは思っても その疑問は口にすることが出来ない。

「髪飾りはこれをつけろ」

無造作に投げられたそれをは反射的に受け取る。手で受け止めたそれは見覚えの無い、かわいらしい赤い花の髪飾りだった。 こんなものは持っていない。そう言おうとするよりも先に三郎が部屋を出た。ピシャッ! と音をさせて戸は閉められた。

「さっさと着替えろ」

機嫌があまりよろしくなさそうな三郎の声音には口を開くのを諦め、自分のではないのだからきっと鉢屋三郎のものだろう。 そう自分を納得させ三郎の言うとおりに着替える事にした。
とりあえず、言うとおりにしておけば間違いないだろう。だが、これから一体こんな格好をさせられてどこに連れて行かれるのか ...。どうせ碌な事じゃないんだろうな。と、不安いっぱいで(自分の物のはずなのに、三郎があまり許可してくれないせいで)久しぶりに見た、着物に袖を通した。
着替えが終わり、次は渡された赤い花の髪飾りを髪に挿そうと鏡の前に座った時、戸の向こうから三郎に声を掛けられた。
「着たか?」
は鏡から視線を外し、戸に向かって「はい」とだけ返事をした。すると、遠慮もなしに三郎は戸を開けた。 まさか入ってくるとは思わなかったは目を丸くさせる。

「なんだ、まだそれを着けていないじゃないか」

それ、と顎で指されたのは今まさに髪に挿そうとしていた髪飾りだ。
は遠まわしに遅いと怒られているのかと思い小さくすみません。と だけ答えた。しゅん、と頭を垂れたに苦い顔をした三郎が「...怒っているわけじゃない」とぶっきらぼうに答える。
どちらも音を発しない空間に息苦しさを感じながらは、あの本を返し中在家先輩にどんな恐ろしいことになるか分からない が、それでもまだこの鉢屋三郎との時間を共にするよりかは、何倍もマシかもしれないと考えた。
中在家長次にお仕置きされるのと、鉢屋三郎と共にする時間。どちらの方がマシなのか、考えているは相変わらず頭を 垂れたままで、その様子に三郎はには聞こえないほど小さく息を吐いた。

「貸してみろ」

突然話しかけてきた三郎にが顔を上げると、三郎はに向かって掌を差し出していた。だが、主語の抜けた三郎の言葉が すぐに理解できなかったは三郎の顔を見返すばかりで、三郎はしょうがなく「その髪飾りだ」と主語を付け加えた。

「はい」

そろそろと髪飾りを握っている右手を差し出し、三郎の掌の上に乗せる。それを受け取った三郎はの肩を両手で掴んだ。 肩を掴まれたは体をかちこちに固まらせ小さく息を飲んだ。突然の三郎の行動に目を瞑りやり過ごそうとするも、予想 していた痛みはしばらくしても感じなかったので、薄く目を開くと目の前には鏡に映る自分との後ろに膝をついて立っている らしい三郎の顔が見えた。鏡越しにと三郎の視線が混じり合うと、はびくっと体を揺らし、三郎はそれを文句ありげに 片方の眉を上げてみせた。

「お前を待ってたら一日終わる。俺がつけてやる」

そう告げると三郎は慣れた手つきでの髪を手で梳いた。
三郎の言葉に混乱しては鏡の中の三郎に視点を合わせ、じっと 食い入るようにして天敵が自分の髪に触れている姿を見つめた。
髪飾りをつけてやるというのは口実で髪を引っ張られるのか......それともおかしな髪型にされるのか...? 今まで三郎によって行われた数々のひどい仕打ちを思い出し、はその三郎の行動の裏を読み取ろうとした。だが、三郎 は鏡越しに凝視してくるの視線に気づいているだろうに一向に視線をの髪から外さない。

「くし」

三郎の視線がの髪から離れ、鏡越しにと視線を合わせ右手を突き出してきた。突然、三郎と目が合ったことにの心臓 が大きく飛び跳ねた。(もちろん甘い意味ではない)ばくばく、と激しく運動する心臓を落ち着かせる間もなく鏡の前に 置いておいた櫛を手に取り、後ろから伸ばされた三郎の手の上に乗せた。それを受けとった三郎はの髪を櫛を使い、梳き 始めた。
一体何が目的なのか? 天敵・鉢屋三郎の行動が読めず、は心の底から早く今日という日が終わればいいのにと願った。



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鏡の中に映る姿は、まるでどこかのお姫様のようで一瞬見ただけでは自分だとは分からない。
は劇的に変わった自分の姿が映る鏡を呆けたように見つめた。ポカン、と口を開けると鏡の中の自分も間抜けに口を開いた。

「おい、せっかく見かけはいつもより何百倍も良くなったんだ。口を閉じろ」

その言葉と同時に顎を持ち上げられた。
ガチッ! と歯と歯がぶつかった音と衝撃が歯から伝わってくる。
痛い! と抗議の声を上げたい所だが相手は鉢屋三郎だ。は口を引き結んだ。




どうやらが久しぶりの着物に袖を通していた間に、三郎も着替えてきたらしい。いつもの装束ではない明らかに私服だと 思われるものに着替えていた。
すたすたと先を歩く三郎はの歩幅に合わせるつもりはこれっぽちもないらしい。これ以上速度を緩めると置いていかれそうだ、 と考えてからはハッと我に返った。
別に置いていかれてもいいじゃないか。どこに連れて行かれるのかも依然教えてくれず、 歩幅を合わすつもりも無い三郎。もうこの際、中在家先輩に受けるひどい仕打ちは一瞬の事だ。(だと、勝手にが思っている) それに比べて三郎の交換条件は一日掛かりそうだ。は二つを天平に掛け考えた。
どちらの方がマシであろうか...。顎に手をあて、じっくりと考えた。
結果、一瞬の苦しみの中在家長次に傾いた。 小走りで三郎を追いかけていた足を止め、は抜き足差し足で道の横の林の中に足を向けた。
もういいのだ。縄標がどれだけ痛かろうと一瞬の事なのだから。恐怖でひきつる自身の顔には気付かないふりをしては自分を 納得させようとした。嫌な事に、痛いことには慣れている。鉢屋三郎から今まで受けてきた嫌がらせを足して百としたなら 、一回の縄標など五十にもならないはずだ。そう考えると...

「...軽い軽い」
「何が軽いんだ?」

突如聞こえた声にが飛び上がり振り返ると、怒りの形相をした鉢屋三郎が居た。声にならない悲鳴を上げるを睨み。 三郎は今まさに逃走しようとしていたの首根っこを掴んだ。

「お前は重いがな!」

三郎の怒鳴り声にびくびくし、縮み上がったは抵抗する事も出来ず三郎の言う交換条件を果たすべく、無理やり道を修正 させられた。






かえりたい...。