以前よりももっと現国の授業が楽しみになった。
先生の言葉を一つも聞き漏らさないように私はいつだって集中して一時間を過ごした。先生の語りかけてくる言葉に 頷いて返して、ノートだってきっちり書き込んだ。
 荷物になる資料を使わないだろうか、という私の邪まな気持ちを前提にしての願いは叶うことが無かった。
現国の授業は大抵教科書で事足りる。また資料を使うことがあれば、私が国語準備室まで運ぶことになるのだと、 私は何となく確信めいた自信を持っていた。そうすればまた先生の内側を見ることが出来るのだと根拠もなく思っていた。
きっとあれは皆に見せてくれるものじゃない。例えば“せんせー”と好意を隠すこと無く甘えた声で呼ぶような子達に 先生は絶対にあの顔を見せない。あの全開の好意が“先生の顔”をますます強固なものにしていると彼女たちは気付かない。 けれどそれで良いと思った。独り占めしたい、なんて図々しいことを言うつもりは無いけれど、出来るだけそれを 知っているのは小数であればいいとは思う。
最初は無に等しかった感情は今や小さい独占欲となって現れていた。
だからといって私はどうこうするつもりなんてないし、どうこうなるとも思わなかった。きっとこのまま生徒と教師のまま卒業していくのだとわかってる。
それでも廊下で擦れ違ってただ挨拶をされるだけじゃなく、名前を呼んでもらえるような、個として区別してもらえる ...少しだけ先生の特別を貰えたらいいとは思っていた。それで満足する。ほんの少しの特別をもらえるなら良い生徒でいる。
だけど優秀な、良い生徒で居ることイコール先生が気にかけてくれるということじゃない。
中には出来のいい子をかわいがる先生もいるけれど土井先生はそういうタイプの先生ではない。むしろ出来ない子をひっぱり上げようとするのが土井先生だ。
だけど、だからといってテストで毎度毎度一桁の点数を叩き出す勇気は私には無かった。


 課題のプリントを私は机の中にしまった。「課題は?」友人が私の机の中を覗き込むようにして尋ねてくる。
「やってくるの忘れた」
「あーあ、今日提出期限だって言ってたのに」
「放課後に提出しに行くよ」
 教卓の前に居る先生に皆が課題を提出しに行く光景を眺めながら私は文字の埋まってるプリントの上に教科書を片付けた。 もうすぐチャイムが鳴るから今日はこれで授業は終わりだろう。時間を確認するついでに先生を見ると、何かをクラスメイトと楽しそうに話しているのが見えた。 放課後のことを頭に浮かべて、私はひっそりと早くなった心臓の音を誤魔化そうと机に頬をくっつけた。

 放課後、教室の中が急にがらんと寂しくなったのを横目に見ながら、とっくに荷物を詰め終わった鞄を持ち上げた。 机の中から引っ張り出したプリントを右手にヒラヒラさせながら、はやる足を落ち着かせて国語準備室までゆっくり歩いた。 第一声に発する台詞を頭に浮かべながら閉じている扉をノックする。

「はい」

 応答する声に一瞬どきりと心臓が跳ねる。

「失礼します...」

 扉を開け、素早く部屋の中に目を走らせれば土井先生しかいないことを知る。思わぬ幸運に緩みそうになる口元に力を入れて少し埃っぽい 部屋に足を踏み入れる。

?」
「すいません、課題の提出に...」

 キャスター付きの椅子をくるっと回して私に向き直る先生は「あれ、まだ出してなかったか?」意外そうに呟く。
頷いて返しながら私は先生の机の横まで歩を進め、手に持っていたプリントを差し出した。

「やってくるの忘れて、さっき終わったんです」

 白々しい嘘に少し良心が痛んだが、先生は疑う様子も無くプリントを受け取ってくれた。

「まだ提出日だから減点は無いですか?」

 少しの減点ぐらいどうってことない。こうやって引き換えに放課後の先生を少しの間でも独り占め出来るなら。
そんな私のとてもきれいとは言えない感情を知らない先生は、プリントに落としていた視線を上げて「しょうがないな」 と笑った。先生は良いところを拾い上げてくれる。私のこの行動に裏があるなんて、きっと思ってもいないに違いない。そしてその裏側に潜む私の感情も。
 二人だけの埃っぽい部屋に夕陽が差し込む。私は他に何かここに留まれるための話題が無いか頭の中を探してみた。だけど、先生と生徒の 間柄で話すべきことは学校のこと以外には思い浮かばない。先生は私がまだ何か用事があると思ったのか、口元に 優しい笑みを浮かべて私を下から見上げている。私はその視線を意識せずにはいられない。少しずつ早まる鼓動を 感じながら肩に掛けた鞄の持ち手をぎゅっと握った。

が忘れるなんて珍しいな」

 やがて沈黙を破ったのは先生だった。

「...私、よく忘れ物とかしますよ」
「そうなのか?」

 意外そうな声に頷いて答える。課題はあまり忘れることは無いのだけれど、とは心の中でだけ返す。 そして今日も厳密には忘れていなかった。計画的に忘れていたことにしたのだ。そんな小細工をしたと知ったら 先生は私のことをどう思うだろう? ......きっと、何でこんなことをしたのか分からないだろう。

「また忘れるかもしれないのでその時はよろしくおねがいします」

 これは犯行予告だ。私は先生と二人きりという誘惑に負けて、また課題を忘れてしまうだろうから。
先生はそんな私の心情を知らずに「なんだそれは」と、おかしそうに笑った。

 土井先生は他の先生に比べて課題を小まめに出す。それはつまり私が忘れ物をする機会がたくさんあるということだ。 だけど私は小賢しくも課題を毎回忘れるのではなくて、時々しか忘れないことを決めていた。
毎回毎回忘れていては先生に呆れられる可能性がある。それにやりすぎては不審に思われる可能性だってある。 それを考えて時々しか忘れないことに決めた。それの方が真実味がある。
 何度か放課後に国語準備室を訪れたが、土井先生が一人で居る事はあまり無かった。当然と言えば当然なんだけど、 あの部屋は土井先生一人のものではないのだから、他の先生がいる状態が普通なのだ。
先生が一人ではなかったことに落胆する気持ちを隠しながらも、私は日に日に胸の中で成長する気持ちから生まれた欲を持て余していた。
 何度も思い返すのは先生の顔が剥がれた瞬間のものだった。
それを大切に、私だけの宝物としてひっそり喜びを噛み締める、それがきっと正しい姿なのだと私は何度も自分に 言い聞かせた。欲を持っちゃいけない。立場を弁えなければ先生はすぐに異変に気付いてしまう。
そうすればどうなるか......そんなことはどんなにも簡単なクイズの答えよりも分かりきっている。

 努力のかいあって、私は土井先生とそこそこ仲の良い生徒になっていた。これで満足しておけば、手に入れたこの立場 のまま、きっと先生とは円満な関係を持続したまま卒業できる。あわよくば卒業後も時々思い出してくれるかもしれない。 ...なんて、これは私の願望でしかないのだけど。
 長い夏休みの間、土井先生と会うことは無かったけれど、私は瞼に焼きついた映像を繰り返し思い出すことで過ごした。 一人になる時、お風呂の時間や寝る前の時間などに意識せずとも頭に浮かぶのは先生だった。
胸がきゅっと締め付けられるような感覚がして少し息苦しくなる。それなのにそれが嫌じゃない。
毎年終わらないで欲しいと思うはずの夏休みが少しだけ長く感じた。

 珍しくすっきり起床することに成功した私は、気まぐれでいつもの時間よりもずっと早く家を出た。
母の仕事が早番だということで一緒に家を出てきたのだ。いつもならだらだらと時間を過ごすのを今日はたまたま、本当に気まぐれで家を出た。 季節は秋へと移ったこの時期、少し前までの湿った暑さが嘘のように冷たく感じる風が吹くようになっていた。 熱すぎることも寒すぎることも無いこの時期が一番過ごしやすい。まだ時間が早かったので日差しもそう強くなく汗をかくこともなく私は学校への道を歩いた。
校門が見えたところで私はその場でハッとして目を見開いた。走って校門まで行けば、いつもは開いているはずの門 が閉じられている。まさかこんな事態になるとは想像もしていなかった私はガクッと肩を落とした。 どうにか中に入ろうと調べてみるも、横に引く形の重い鉄の門の端は施錠されていた。
朝練のために来ている生徒はいないのだろうかと考えるが、帰宅部の私にはそこのところの事情がよく分からない。 そんなわけは無いとは思いつつも念のために今日は休日では無かったか携帯で確認してみるが、画面には水曜日としっかり記されている。

「...おそい」

 誰か知らないけど、施錠されている門を開ける人が居るはずだ。その人の所為で私は締め出されている。 その事実に苛立ちを感じながら呟いた。せっかく早く家を出てきたのに...早起きは三文の得なんて嘘だ。

?」

 突然名前を呼ばれてそれが誰であるか考える間も無く背後を振り返り私は息が止まった。
自転車を手で押している土井先生が、驚いた表情でこちらを見ていた。意味も無く肩が跳ねて、思わぬ出来事に私はその場で固まった。

「おはよう」
「おはようございます...」

 「早いな」そう言って鍵を取り出してがちゃがちゃしだした先生の後姿を見ながら私は咄嗟に答えた。
心臓はこの予期していなかったハプニングにいつもよりも激しく動いている。

「おかあ、...母の仕事が早番だったんで、それで一緒に家を出てきたんです」
「そうなのか、私と一緒だな」

 一緒。つまり土井先生も早番なのだろうか。私が声をかけようとしたところで、ちょうど先生が振り返った。

「遅くなって悪かった。開いたぞ」

 そういった先生が取り澄ましたように表情を作っているのを見て、何故そのような表情を浮かべるのか分からずに 首を傾げたところで心当たりを思いついた。さっきの私の独り言を聞かれていたのだ。
慌ててそんなつもりじゃなかったと弁明しようとすると先生は軽く笑った。私が「えっ、ちがっ、さっき、そんなじゃ」 とか意味の分からないことを言って慌てるのがおもしろかったようだ。
静かな朝の空気を密かに震わす先生の笑い声に私は頬が熱くなるのを感じた。

「いや、寝坊した私が悪いからに文句を言われてもしょうがない」

 文句なんて、そんなつもりは...。決まりの悪い思いで口の中でもごもご呟いてから私はパッと顔を上げた。

「寝坊、ですか?」
「うっ...」

 あきらかにぎくっと肩が跳ねた先生をじっと見ているとやがて諦めたように頷いて私の問いに肯定が返って来た。 その反応に思わず口元が緩みそうになったところで横目に観察していた先生の変化に私は思わず息を詰めた。
   あ、剥がれる。
ちらりとだけ見えた表情は先生のものではなかった。眉を垂らして弱弱しく口元にだけ笑みを乗せている表情は今までに見たことの無いものだ。 けれど私の期待とは裏腹に先生はすぐに持ち直してしまった。がっかりしていると中に入るように促され、慌てて中に入った。 校門を開ける先生の手伝いをしてから、教室の鍵を取りに行くために一緒に職員室に向かった。
ふと気になって校門に触れて鉄くさい匂いが移った手のひらのにおいを嗅いでみた。

「匂うか?」

 私の様子を見ていたらしい先生が小さく笑みを浮かべて話しかけてきたので私は頷いて答えた。
それから自分の手の平を先生の方に持っていこうかと思いつくが、意気地が無くて実行には移せなかった。 鉄くさい手を下ろして、そういえばという風を装って先生に声をかける。
こうやって先生と二人で歩いていることに嫌でも胸が高まってしまう。ましてや先生はさっきから私を横目で見ているのが さっきのことで分かった。手が汗で湿るのを感じた。

「先生は水曜日が早番の日なんですか?」

 口にしてからもしかして私の心の内を読まれてしまわないだろうか、声に不純なものが滲んでしまっていないだろうか、と どきどきするも、先生は別に何も疑問に思わなかったようだった。

「二週間に一度当番で回ってくるんだ」

 瞬時に頭の中に再来週の水曜日、先生が早番と書き留めた。再来週の朝、いつもより少し早く来ればこうやってまた先生と 二人の時間を持てるのだろうか。その想像は私の鼓動を早めた。嫌でも気分が高揚してしまう。
その後、先生と一緒に職員室に向かった私は無人の職員室という珍しい光景をじっくり眺めてから教室の鍵を持って先生に 別れの挨拶をして教室に向かった。本当はもう少し職員室にとどまりたかったのだけど、あまり長居しても邪魔かと思って 遠慮した。先生を煩わせたくはない。
 “次の次の水曜日”私は早速、先ほど聞き出したばかりの情報を書き留めるべく、教室に入ると鞄の中から手帳を取り だした。指でその日の日付に触れてから、何のマークを入れようかと考える。真っ先に頭に浮かんだのはこういう時の 定番のマーク、ハートだったけれど、それを書くのは気恥ずかしかった。いくら自分しか見なくても何となく書くのを 躊躇してしまう。浮かれていた私は気付けば好きな歌を小さく口ずさみながらたっぷり10分悩んでから日付の隣に小さな星を時間をかけて丁寧に書いた。 きっと土井先生が二週間に一度の水曜日が早番の日だと知っている生徒は私くらいじゃないだろうか。
たまたまとは言え、いや、たまたまだからこその偶然に私は特別を見出した。見出してしまった。
嬉しくて勝手に口が笑ってしまうのを感じながら私は息をそっと吐き出した。
早起きは三文の得というのは本当だった。


 私は偶然を装って一月に一度という制限を設け、水曜日はいつもよりうんと早く家を出た。母の早番に関係なく 家を出たが、先生にはわざわざそんなことを言わなかった。きっと先生は最初に説明したとおり母が早番だからこんなにも早く私が 登校してきているのだと思っているだろう。だけど実際はそうじゃない。嘘を言ってるわけじゃないけど少しこずるいやり方なことは十分に分かっている。
 朝の静まりかえった校内を二人で歩く時、私はまぎれもなく先生を独り占めしていた。今ここには二人しか居ないんだと、 土井先生は私だけを見ているのだと思うと私は言葉に出来ない気持ちでいっぱいに満たされた。心地の良い満腹感だった。
そうやって幸せを感じながらも、先生を独り占めする時間が増えれば増えるほどに私の胸は満たされるのに、 すぐに次を要求するようになっていた。消化してしまっては次を強請る。“次”はもっとおいしいものでなくちゃ満足できない。 もっともっとと貪欲になっていくのが自分でも分かっているのに止められそうに無かった。
先生をもっと独り占めしたい。
皆が知らない先生をもっと知りたい。
まるで底なしの沼が心に出来たみたいだった。
そんなのだから当然一月に一度の朝の時間だけでは足りずに、私は何度も課題を忘れたふりをした。
運がよければ放課後の先生を独り占め出来る。それを撥ねつけられるほどの強い意思を私は持ち合わせていない。 そして厄介なことに私は恋にのめり込んでいる自分が嫌いじゃなかった。先生の言葉に、態度に、一喜一憂するのが楽しいと感じてしまう。 そしてそんな自分にどこか満足しているところがあったように思う。
 順調に先生との距離を縮め、気付けば季節は冬に移り変わり、このままぼんやりしていればすぐに春がやって来そうだった。 この学年最後の〆である学年末テストも終わればあとは気楽なもので授業もあまり無い。


「来年も先生が担当?」

 この一年ですっかり砕けた口調で友人が先生に話しかける。先生もそれが普通であるかのように気にした素振りが無い。 私は他の友人達と同じように先生を見つめながら内心はこの突然の話題にどきどきしていた。
来年も先生が担当してくれるのならそれだけで接点が出来る。逆に言えば担当ではなくなれば接点は無いに等しい。 だから先生がどちらを答えるのか、多分ここにいる友人達の誰よりも興味があった。緊張で心臓が大きく鼓動するのを 感じながら先生がなんと答えるのか息を呑む。
こちらの緊張に気付く様子の無い先生は何でもないように薄く笑みを浮かべた。

「まだ決まってないから何とも言えないな」
「えぇー」

 すぐさま半信半疑、不満交じりの声が漏れるが、ちょうどその時チャイムが鳴ったので先生はそれをタイミングと見たようで これ以上つっこまれるのを回避するかのように足早に授業終了を告げて教室を出て行った。

「絶対うそだよ」
「多分もう決まってるでしょ。来年受け持つ学年」
「まだ言うなって言われてるんじゃない?」

 口々に話し始めた友人達を眺めながら考えるのは早くも来年のことだった。考えなかったわけじゃないけど、先生が 担当教諭じゃなくなった未来を初めて身近に感じ、私は自分で思っていた以上に心が沈むのを感じた。

「...土井先生がいいな」

 ぽつんと呟いたはずの言葉は意外にもみんなの耳へと届いたらしい。一学年上がることについて、早すぎると文句を言っていた口が一様にぴたりと止まった。

「まぁね...」
「先生の授業わかりやすいし」
「課題はいっぱい出されるのがやだけどねー」

 言葉には表されないけれど彼女たちの言葉の前提として土井先生の人柄があることを私は知っている。 授業がわかりやすいという理由だけではあそこまで慕われることも無かったと思う。

は先生と仲良かったもんね」

 独りよがりなものじゃなく、友人達から見ても私と先生は仲が良かったのだと知って私は現金にも沈んだものが少し浮上したのを感じた。

「そうだ。が聞いてみたら先生教えてくれるかもよ」

 何気ない様子で、きっと彼女にとってはそんなに重要な言葉ではなかったのだろう。軽くてすぐに忘れてしまうような 言葉に違いなかった。けれど私には重くてとても価値のあるきらきら光ってるものに思えた。
私だったら先生は教えてくれるかもしれない。
それはつまり私と先生がそれほど仲が良く見えたということだろうか?
都合良くポジティブな私はまたしても心が浮上するのを感じた。






(20121105)まだ続きます。