「...何だあれ」 帰宅途中、屋根から屋根へと飛んでいる影を見つけ、思わず呟いた。 月の綺麗な夜だった。
ニュクスの肖像
私の呟きが聞こえたわけではないだろうけど、突然動きが止まった影に思わず目が釘付けになった。 動きが止まればその影の正体が人であることを理解した。輪郭が澄んだ冬の夜空に解けてしまいそうだが、その形は紛れもなく人以外の何ものでもなかった。 だけど人が屋根から屋根を飛びまわれるわけが無い。いや、もしかしたらそういう人も居るには居るかもしれないけど、常識的に考えてこんな住宅街でもうすぐ日付が変わろうとしているときには居ないだろう。 じゃあ、あれは...、そこまで考えたところで急速な動きでその影がこちらに近づいてきた。尋常ではない速さと動きに、それが人ではないという確信を持った。 瞬きを一度しただけで目の前に建つ家の屋根の上に居たのだ。チーターとかよりも早いかもしれない。 それが何かわかった今となっては無視をするのが一番だ。 何も見えていなかった、そういうふりをしてこの場を素早く去る。 それを実行するべく、私は我が家へと続く道を辿ろうした。 「よお、今アンタこっちを見てたよな」 「...」 まさか話しかけられるとは思っていなかったので、ぎくりと体が強張り、踏み出した足が止まってしまった。 「霊体化してたと思うんだが、」 独り言のように呟かれた言葉の意味がわからず、内心首をかしげた。 握った手の平はじわりと湿り、汗をかき始めている。 「見られたからには殺さなきゃならねえんだが」 そうして飄々と告げられた言葉はあまりにも普段馴染みの無いものだったので理解するのに時間を要した。 だけど先ほどから空気が文字通り凍ってしまっているような感覚を覚えるので、それが冗談の類ではないのだと本能的に知った。 手足がぴりぴりするような、きりきりと糸を張り詰めているような緊張感を肌で感じる。ともすれば、その糸はいずれ切れてしまうかもしれない、そう考えると余計に全身に力が入った。 「悪いな、そういう命令なんだ」 ブン、と何かが空を切るような音が聞こえた。そちらを振り返ることができないのでそれが何かはわからないものの、それで殺されるかもしれないのだと予想は出来た。 このままじゃ見えていたということが理由で殺されてしまう。こっちは見たくて見ているわけじゃない。 どうしたって視えてしまうというのに...そんな理不尽な理由で殺されるなんてごめんだ。 焦れば焦るほど頭の中は真っ白になっていく。浮き出ていた汗はいつの間にか玉になって背中をつーっと流れていく。 そうこうしているうちにも相手は屋根の上から降りてきたようで、背後で微かに地面を蹴るような音が聞こえた。 その瞬間、私は声を上げた。 「えっと! 今日は何を食べようかな!」 「...」 深夜に差し掛かるような時間帯ということもあり、住宅街には音が無い。その静寂を切り裂くように私の声が響いた。 「か、からあげが食べたいけどこの時間に食べるのはちょっとだし、おにぎりでもコンビニで買って」 必要以上に大声が出てしまったのは(その上噛んでしまった)何もご飯を食べられるのが嬉しくてたまらない! ってわけではもちろんない。 命の危機に直面して焦っている所為だ。もちろん食欲なんか本当はゼロだ。今からあげなんて食べたら確実に吐く自信がある。 「...俺のことが見えてなかったってことか?」 顔を覗き込むようにして視界に突如現れた顔に、ぎょっとして肩が跳ねた。 さらりと長く青い髪が肩から滑り落ち、煌々と光る赤い目が伺うようにこちらを見ている。 目玉が勝手に動いてしまいそうになるのを必死に抑え、真っ直ぐに前だけを見つめる。 ここには私一人...ここには私一人で他には誰も居ない。 自己暗示をかけている間にも探る視線が無遠慮に頬へと突き刺さる。 どうにかこれからご飯を食べれて嬉しい! という雰囲気を出そうとするものの顔が強張ってしまう。せめてもと口角だけは吊り上げた。 「ハハッ、今から殺されるってのに飯の話しなんかできねぇだろうからなぁ」 実際には一分と経たない時間だったかもしれないけど体感としては途方も無いと感じる時間を経て、ようやく探る視線が離れた。 先ほどまでと打って変わってからりと笑い声を上げる様子にホッと息を吐いてしまいそうになるが、まだ油断は禁物だ。 「見えてなかったってんなら殺す必要はねぇ」 その言葉を聞いて、ようやくお腹の底から息を吐くことが出来た。とはいってもあからさまにほっとしている様子を見せるわけにもいかないので、 細く息を吐いた。どうやら殺されることはなくなったと思ってもいいようだ。 「そもそも無抵抗な女を殺すってのは胸糞悪い」呟くように紡がれた言葉からもこの人の意思で私を殺そうとしていたわけではない、ということは察しがつくが、 その点については私にはあまり関係が無い。この人の意思ではなかったにせよ、結果的に殺されるかもしれなかったのだから。 誰に指示をされているのか知らないが、迷惑どころの話じゃない。この人に指示を出した奴、許すまじ...!! 「じゃあな、もう会うことはねえと思うが」 その言葉が合図のように気配が消えた。 私だって二度と会いたくない。 ――→ |