<六>
長いと思っていた研修も残り5日で終わるのだと思うと感慨深い。
最初はよそよそしいと思っていた部屋がいつの間にか一番リラックス出来る場所になったところで研修が終わってしまうというのは少しだけ寂しいような気がする。 本日の日誌を書き終えてから電気を消し、さぁ寝ようと布団の上に寝転がる前に喉の渇きを感じた。
我慢できないわけではないが、眠りにつくまでの数分を快適な時間にしたくて私は厨まで行くことにした。
最初に来たときにはこの日本家屋独特の雰囲気に苦手意識を持っていたというのに一月いればそれは改善されるらしい。 最初の頃なら夜中に水が飲みたくなっても我慢しているところだ。
思い立ってからすぐに戸を横に引き、さわさわと木々が音を立てるのを耳にしながら廊下を歩く。
この研修が終わったら何をしよう。とりあえず同期兼友人との情報交換は欠かせないだろう。そんなことを考えていればすぐに目的地へ到着した。 当たり前だが人気の無い部屋の中は暗いが、ここに来るまでに少し目が慣れていたらしく苦労することなく冷蔵庫まで辿り着けた。

「誰かいるの?」
「ひっ!」

今まさに冷蔵庫に手をかけようとしたところで突然第三者の声が耳を打ち、私は驚きすぎて軽く跳ねながら身を縮こませた。

「あれ、どうしたの」
「もうっ! 驚かさないでくださいよ!」

パッと突然明るくなったと思えば、電気のスイッチの横には燭台切さんがいた。
相手が誰かわかれば一気に緊張が解ける。心臓はまだ早く鼓動を打っているが、それを無視して冷蔵庫を開けた。 「ごめんごめん」と背後から聞こえる軽い謝罪に耳を傾けつつ、目当てのお茶を取り出してそれをグラスへ注ぐ。燭台切さんも喉が渇いたのかと思い、「いりますか?」と声をかけたが大丈夫だと返って来たので一人分だけ用意して、よく冷えたお茶を一気に煽った。 グラスをすっかり空にしてからは後片付けを済ませる。スポンジを取ってグラスを洗いながら横目で入り口のあたりを見るも、相変わらず燭台切さんはそこに立ったままだ。 何をしに来たのか知らないけれど私がここに居るのが邪魔になっているのかもしれない。 さっさと片付けて部屋に戻ろうと、泡のついたグラスを水で濯いでから部屋の出口へと――燭台切さん向かって歩けば、視線が真っ直ぐ向けられる。 頭を下げつつ「おやすみなさい」と声をかけようと燭台切さんの横をすり抜けようとしたところで腕を取られた。
黒い手袋に覆われている大きな手に自らの左腕が握られている、という状況を自分の目で確認してから顔を上げると、思いがけず真剣な顔を見つけてしまって軽く動揺した。

「ちょっといいかな?」

緊張を孕んだように唇には力が込められ、金色の瞳が真剣な光を湛えてこちらをじっと見下ろしている。そんな状況で断れるわけもない。 半ば迫力負けしたように私はこくんと頷いた。
とりあえず電気をつけたままだと消し忘れたと思った誰かが来るかもしれない。と燭台切さんが言うので灯りは消した。 真っ暗な厨の中で話をすると言うのもどうなんだろうと思い、部屋を提供することを提案したのだが即座に却下されたので、当たり障りの無い縁側へと腰掛けることになった。 厨の近くには個人部屋がないので、ここで話していても誰の迷惑にはならないだろう。
そこまで明るくは無い半月の浮かぶ夜空を見上げながら縁側の端へと腰掛ける。そうすると私の右隣に燭台切さんが並んで座る。 二人分並ぶ足を見比べ、ずいぶん長さが違うことに気づいてショックを受けなりながら、今までにはなかった展開に一体何の話なのかとそわそわする。 改まっている様子を見る限り、明日の食事当番を手伝ってほしいというものではないことが想像できる。
ちらりと盗み見た表情にはいつもの柔らかい笑みが消えていて、鋭さを感じさせた。
空気はピンと張り詰めているのを肌で感じ取り、自然と体が固くなる。

「どうしたんですか?」
「...話がしたいと思って」

結局話を切り出したのは私からだった。
切り出した、とは言っても耐え切れなかったというほうが正しい。
そうして返ってきた言葉はいつもの彼の口調と違い、覇気の無いものだった。 そのことが余計にこれからただ事ではない話をするのではないかいう予感がして居心地の悪さが増す。

「研修も残り少しだね...」
「あ、そうですね。日誌のページ数が少なくなったのでいよいよだな〜って思ってたんですよ!」
「そっか」

そこでまた会話は途切れてしまった。昼間の喧騒が嘘のように皆が寝静まった本丸内は静かだ。 その中で私の白々しいほど明るい声が響き、余計に雰囲気が可笑しくなったような気がする。
横目で隣を確認すれば、向こうもこちらを伺っていたようで目が合った。反射的にへらっと笑って返すと、引き結ばれていた口端が少しだけ上がった。 とりあえず笑い返してくれたことには安心しつつ、手持ち無沙汰でしょうがないので余白を埋めるように髪を弄ってからそれが失礼な気がし、思いなおして手を膝の上に置く。 そこで隣から小さく息を吸い込む音が聞こえて反射的に首を捻る。
そうすると金色の瞳をこちらを見ていた。

「君がここを出て行くとき、僕も連れて行って欲しい」

真剣な顔に視線が釘付けになりながら、今言われた言葉を反芻してようやく間抜けな声が出た。

「えぇっ...?!」

目を丸くして口を開け、見るからに驚いている私の表情を見るや否や、燭台切さんが焦ったように前のめりになって距離を詰めてきた。 反対にこちらは距離を取ろうと後ろに軽く仰け反る。そうすると燭台切さんがまた距離を詰めてくる。ので、私はまた仰け反った。

「僕を引き抜きたいって言ってたよね?」
「...い、言いましたけど...」

少し間が開いたのは自分が本当にそんな発言をしたのか思い出していたからだ。
他愛ない会話の一部として頭に残っていたので肯定すれば、言質を取ったでも言うように金色の瞳の輝きが増したように見えた。

「条件通りのものを用意してくれるって言ってくれたけど何もいらない」

全身で訴えかけてくる切実さに気圧されてあれは冗談だったと言おうとしたのに上手く声がでなかった。 だけどまずい話をしているという自覚はある。何という言葉を返そうか考えるよりも先に口が開いたが、それを留めるように床に置いていた右手を握られた。 床と接していた手の平に皮特有の感触を覚えたと思えば、それ越しにぎゅっと大きな手に握られる。
思わぬ彼の行動に、体にぎくっと力が入って硬直した。

「何もいらないから、一緒に連れて行って欲しい。君のものになりたい」

これが冗談の類ではないことぐらいその顔を見れば一目瞭然だった。あまり明るくはないはずの月明かりの下でも頬が紅潮しているのが見て取れた。 懇願するように眉根は寄せられ、瞳は煌々と金色に燃えているようだった。 思わずこんな状態なのに目が釘付けになった。そのまま5分とも10分とも判断できない決して短くはない時間が過ぎてからこの雰囲気にのまれそうな自分を叱るつもりで頭を振った。

「...燭台切さんはこの本丸の、先輩の燭台切さんです。なのに私のものになんて出来ません」

先ほど水分を摂取して潤ったはずの喉から発せられた声は掠れていた。
気まずさに目を反らしそうになったけれど、踏みとどまってきっちりと断った。

「僕が言ってるのはそういうことじゃない...」
「...けどそういう規則です」

傷ついて表情で振り絞るようにして返された言葉に、私はもう一度言葉を重ねた。
以前にこういうことがあったのか、研修に関しての注意事項には他所の本丸か刀剣を連れ出すことは禁止だとわざわざ記されていた。 そのときにはわざわざこんなこと書かなくたって無いでしょこんなこと、と思っていた私が今こんな状況になるなんて思いもしなかった。

「私はここに勉強させてもらいに来たんです」

あくまでも希薄な関係であると主張すると、燭台切さんは傷ついたように瞳を揺らして黙り込んでしまった。
途端に罪悪感を覚える。それでなくても燭台切さんは傷ついているのに...そう思うとどうにかしくていけないと、と思うと掴まれている手の上にもう片方の手を重ねた。 すっかり力が抜けてしまった燭台切さんの手を両手で握った。こうすることで慰められるとは到底思えないけれど、何をすればいいのかわからなくて咄嗟の行動だった。 「そう言ってもらえたのは嬉しかったですし、とても光栄です」俯いてしまった燭台切さんの旋毛に話しかけるもなかなか顔を上げてくれない。

「...ごめん、かっこ悪いね」
「そんなことないですよ!」

慌てて否定したものの、それが聞こえていないように燭台切さんはふらっと立ち上がると「こんな遅くに時間を取らせてごめんね」と言って去ってしまった。 追いかけるべきか、けど追いかけたからと言ってなんて声をかければいいのかわからず、結局私はその場で罪悪感に押し潰されそうな胸を押さえた。


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(20160723)