私は何も悪いことをしてないと思う。それどころかちょっといいことをしたと思っていた。
 友人が彼と連絡がつかないと泣きながら連絡をしてきたので、無事を確かめるためにはるばるHLまでやってきた。
 HLがどういうところなのかは、遠い地――日本に居ても噂は聞こえてくる。彼に何かあったかもしれないと道中泣く友人をなだめながら初めてHLへと足を踏み入れ、彼を探して見つければなんてことない。スマホが盗まれたという顛末だった。
めでたしめでたし。と、おとぎ話ならなっただろう。 感動的な再会をはたした恋人同士、幸せに暮らしましたとさ。と。だけど実際はそうはならなかった。
 彼を探すことになるのであれば、多めに猶予を確保しておいたほうがいい、と帰りの飛行機のチケットは1週間後のものを用意していたのだ。
なので、一週間はHLに留まる見積もりをしていた。友人の彼とは一日目で無事に連絡が取れたので、残りの日数を私はほとんど一人で過ごすことになった。
友人は久々に会えた彼の家に住み着いている。それに関しては私も邪魔をするつもりはないので、なかなか会えない彼と過ごすことを勧めた。友人が幸せなら来てよかったと思う。もちろん友人は私が一人で時間を過ごすことを申し訳ないと言ってくれたのだけど遠慮した。
だが、予想外に長い日数を一人で過ごすことになったので時間を持て余してしまい、現状を作り出してしまうことになった。
結果、バーなんてところに行ってしまったのだ...。
 ちょっといいことをしたと思っていた。なのに.....今私はお寿司をたかられている。

「ウニとウニとウニで」
「へいっ! ウニとウニとウニね!」
「......」

 威勢の良い大将の返事とは打って変わり、こっちはお会計のことを思うとげっそりしてくる。ウニは値段のことを考えると私は手を出すことも出来ない。
だというのに、隣の男はこれっぽっちも遠慮することなく、大トロだのウニだの鯛だの値段が高いものばかり注文するのだ。青物とガリも食べろ!!!!
 ザップさん曰く「俺は、お前の、命の、恩人」(腹が立つことにいちいちゆっくり区切ってこのセリフを言う)ということなので、私もきつく言うことができない。 黙ってガリを口に運び、卵で空腹を満たしている。せっかくお寿司屋さんに来たというのに値段のことを考えると食べられるものは決まっているので、 気分的には普段よりも侘しい食事だ。隣でごちそうを食べている奴が居るってのに私はガリを噛み締めてるのだ。それも支払いは自分持ち。悲しい以外の感情がない。
旅行とは少し違うが、一応お金もそれなりに持ってきていた。だけどこんな形で減ることになるとは思いもしなかった!!
もしかしたらザップさんは遠慮という言葉を聞いたことも見たこともないのかもしれない。 ばくばくとそれこそ飲むようにウニを平らげていく様はおいしそうなのに不思議と食欲がなくなる光景だ。
ちまちまとガリを口に運びながら、頭の中で今いくらだろうかと思わず計算する。

「ハー、なかなかだったな」

 ふてぶてしい感想を述べたかと思えば、ゲフッ、とおまけにゲップまでするザップさんに思わず白い眼を向けてしまう。
”なかなかだった”なんてよくも言えたもんだな!用意していたお金で足りるのかひやひやさせられるほどの食べっぷりだったくせに。 もう帰りましょうか、と何度言ったかわからない。それら全て押し切ってまで食べたくせに!!

「あー? あんだってー?」

 知らず文句は口をついて出てきてしまっていたらしい。威圧感たっぷりに隣から声をかけてくるザップさんは、とんでもなく柄が悪い。
助けてもらって感謝していたが、助けてもらう人を間違えたんじゃ? と浮かんでいた疑問はお会計した時に確信に変わっていた。
卵とガリでお腹を満たしたのでは到底叩き出せない金額に、一瞬気が遠のいた。回転寿司だったらお腹がはちきれるほど食べられた...。

「もう帰ります.....疲れたんで」 店に居る間中、お会計の心配をして生きた心地がしなかった。およそただ椅子に座っていただけでは感じることがないはずの疲労感に、体はぐったりしていた。
 昨日のことを反省し、今日は大人しくホテルの部屋で過ごしたというのに、だ。
昼食をとるために少し出かけた以外には外出することもなく、ホテルの部屋でテレビをボーっと見たり、本を読んだり、スマホを眺めたりしているうちにすっかり外は暗くなっていた。夕食はどうしようかと考えていたところで昨日不承不承番号を登録したザップさんから連絡が来たのだ。

「寿司が食いてぇ」

 その時にはまさかお礼を催促されるとは思っていなかったので、きょとんとするしかなかった。ただの雑談だと思っていたのだ。

「食べたらいいんじゃないですか?」
「よし、じゃあ行くぞ。部屋から出て来い、フロントに居るから」
「え?なんで...」
「おっっまえ!!!! まさか命の恩人に礼もなしかッ?!」

 鼓膜が破れるかと思うほどの声量が電話口から聞こえ、顔を顰めながらスマホから距離を取る。

「そんなつもりはないですけど...」
「じゃあいいじゃねぇか。今が礼をするチャンスだ、喜べ! 財布忘れんなよ」

 言いたいことだけ言ってそこでブツッと通話は途切れた。
 このまま居留守をするのはどうだろう。そんな考えが浮かんだが、部屋が知られているのだから無意味だと悟った。あの人のことだ、きっと部屋に踏み込んでくるだろう。
 そうして半ば強引に連れていかれたのが先ほどの結構な値段のお寿司屋さんだ。所謂回らないお寿司屋さんというところで、寿司の本場の日本に住みながらも一度も私は訪れたことがない敷居の高い店だ。 それを何故このザップさんと一緒に...と考えると、余計に疲弊しそうなので思考は停止させた。


「まだこんな時間なのにか?」

 宵の口と言ってもいいくらいの時間帯なので、ザップさんがそう言うのもわかる。だが私は疲弊しているので時間に関係なく帰りたい。
 引き留めてきそうな雰囲気を嗅ぎ取り、反射的に身を引いた。そうすると素早く肩を組まれてしまった。背の高いザップさんとしては、私の肩は肘置きみたいな感覚かもしれないが、こちらとしては重いのでやめてほしい。振りほどこうとしても固定されて逃げだせない。

「まあまあ付き合えよ」
「帰りたいんですって...」

 私の声など聞こえないかのように、またも強引に連れていかれたのは少し奥まったところにある店だ。ちかちかと光る電飾で店の名前を壁に飾っている店は、普段なら近づかないような雰囲気だ。少し危険な匂いがする店にザップさんは怖気づくこともなくさっさと入店した。当然肩を組まれて逃げられない私も店へと足を踏み入れることになる。カラン、とドアにつけられていたベルが背後で鳴った。
店内は薄暗く、大人の雰囲気を通り越して怪しげだ。所々に座っている客がいるものの、そこまで繁盛しているように見えない。
 カウンターへと連れてこられ、バーテンダーの前に渋々座る。

「どれでも頼んでいいぞー。あ、いや待て。お前はアルコールが少ないのにしとけ」

 またゲロられたら俺が大変だからな。付け足された言葉に、肩身が狭くなる思いだ。

「...アルコールが少なくて甘めのものをお願いします」

 あまりお酒に詳しくもないのでそれだけ言うと、バーテンダーのお兄さんは心得たように軽く頷いた。
 「もうお金もないです」とここに来る前に言った私にザップさんは「俺様のおごりだ」と寿司をたかってきたとは思えないことを言った。どちらかと言えば、ここで奢ってもらうよりも寿司屋で奢ってほしかった。命の恩人には言えないセリフは、喉のところまで上がってきたものの飲み込んだ。
.
.
「まだ飲むんですか?」
 注文通り、お兄さんはアルコールというよりもジュースのようなカクテルを出してくれた。
 アルコールが低いとは言っても、昨日の二の舞を踏むことは避けなくてはいけないと用心したため、ちびちびと口にしていたきれいな色をしたカクテルはなかなか減らなかった。それに比べてザップさんは水でも飲んでいるかのようにアルコールを摂取している。私が支払いではないのでどれくらい飲んでもいいのだけど、このままでは私に起きた出来事がザップさんに起きないとも言い切れない。
 雑談をしながら確実に酔っていくザップさんに声をかけるも、その手を止める様子はない。

「うるへぇ」
「ザップ、今日はここまでにしとけ」
「あんだとー!! 俺様は客らぞ!!」
「うわぁー...」

 お兄さんに食って掛かるように叫んだザップさんはすでに呂律が回ってない。典型的な悪い酔い方をしているザップさんには正直引いた。が、私も昨日はこんな感じだったのかと思うと、自己嫌悪と羞恥に頭を抱えたくなった。
 「すいません...」と一応連れとして謝るが、お兄さんは苦く笑った。

「いつもこんな感じだから大丈夫」

「うわぁー」
「なんら彩!! お前生意気らな!!!!」

 空に近いジョッキから手を離し、こちらに標的を変えたザップさんに両頬を摘ままれた。

「やめれくらさいよ!!!!」
「ギャハハハハハハハ!!!!」

 頬っぺたを摘まんで左右に引っ張られ、抗議するものの唾を飛ばして笑うザップさんは怯むことはない。だけど、ツボに入ったのかカウンターに突っ伏したので、自ずと頬を解放された。顔にかけられた唾を無言で袖で拭っていると、お兄さんがティッシュを渡してくれた。お礼を言ってそれで再度拭う。
 私もこういう酔い方をしていたのだろうか...だとしたらザップさんの命の恩人も嘘ではないかも。だって、こんな奴とは普通関わりあいたいと思わないものだし...。なのに相手をして部屋まで送って、その上ゲロまでかけられたのにそのまま放置することなく面倒をみてくれたのだ。...アレ? ザップさんってもしかして良い人...?
ザップさんが良い人かもしれないというまさかの結論に軽く頭がバグりそうになる。

「ザップさんもう帰りましょう」

 すでに疲れていたのにその上塗りをされてぐったりだ。これ以上考えても、疲れた頭ではまともに考えることも出来ない。
 未だにカウンターに突っ伏しているザップさんの、肩のあたりをぽんぽん叩いて帰宅を促すものの、聞こえていないようで返事はない。ため息が出そうになったのを細く息を吐いて逃がす。続いて欠伸も出てきたので、自分が思っているよりも眠気がやって来ていたことに気づいた。

「このまま置いて行ったらいいよ」
「え?」
「珍しくないし。コイツがここに一泊していくのなんて」

 私とザップさんの不毛なやり取りを見ていたらしいお兄さんの申し出に、顔を上げてそちらを見る。カウンター越しにグラスを磨いていたお兄さんは、口元に微かに笑みを浮かべていた。
 お兄さんの言葉からもザップさんがこの店でお世話になることは多いらしいことがわかる。それじゃあお願いしようかな! と、すぐさま心の中の天秤はそちらに傾いたが、待てよ、と思い返したのはきっと同じ状況になったときのことだ。

「...正直ものすっっごく置いて行きたいんですけど...私がこうやってべろべろに酔っぱらってた時にザップさんは面倒見てくれたので」

 とても魅力的な提案をしてもらい、正直その提案に乗っかりたい気持ちが99%くらいあるのだけど、それを実行するのは憚られる。反対の立場だった二日前、ザップさんは知りもしない他人である私の面倒を見てくれたのだ。それなのに私は放って帰るというのも出来なかった。

「そっか、じゃあタクシーを呼ぶよ」
「ありがとうございます」

 人の顔をこねくりまわしてカウンターに突っ伏して笑っていたザップさんはどうやらそのまま眠ったらしい。静かにしているので無理に起こす必要もない。
お兄さんに呼んでもらったタクシーに、これまたお兄さんの力を借りてべろんべろんのザップさんを詰め込み、ホテルの名前を伝えれば車はするっと道路の上を走りだした。ザップさんの家へ送り届けることももちろん考えたが、尋ねても「おう」だの「んー」だの、会話が通じなかったのでしょうがなくだ。
 自分で歩こうとしないザップさんに肩を貸す形で無理やり部屋へと運び終え、ベッドの上に突き飛ばしてから息を吐いた。
 ホテルの受付係の視線からザップさんを盾にして隠れるようにして部屋へと運ぶのは骨が折れ、額には汗が浮き出ている気がする。
 シャワーを浴びるの面倒だな、と思うもののそのまま眠るのも気持ちが悪い。せっかくベッドメイキングしてもらい、きれいにしてもらったのだし。と、思ったがそのベッドにはすでに我が物顔でシャワーも浴びずに寝ている人がいるので今更感がある。
 ぐっすり寝ているらしいザップさんは、起きているときには想像できないほど静かだ。暫く何ともなしにその寝顔を眺めてから視線を上げれば、窓越しにHLの景色が見えた。
 大きな窓から見える景色は、ぼんやりと霧がかかっている。だが、その下でちかちかと色とりどりの電飾が光っているので、不気味さは皆無だ。きっとこんな夜中だというのに喧騒でいっぱいなんだろう。そんなことを考える私はずいぶんとここでの生活にも慣れてきている。
 ただただ”危険”なのだと認識していたHLが、それだけのものじゃないと思い始めたのはきっと、人のベッドの上で遠慮なく大の字になって寝ている人のおかげかもしれない。


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(20191006)