親の離婚なんて今の時代たいして珍しい話でもない。 両親が離婚してからは母に引き取られ、二人で暮らすことにすっかり慣れた頃に三人での暮らしが始まった。 新しい父は優しい人だった。このままここで三人で暮らしていくのだとてっきり思っていたが、そうはいかないということが二月前にわかった。 義父が会社から言い渡され、転勤することになったというのだ。 一会社員である義父が、会社の意向に逆らうなどできるわけもないので転勤は決定事項だ。 これからも続くと思っていた三人での暮らしに陰りが見えた瞬間だった。 そうしてこの暮らしが終わることになった決定的な言葉を母から知らせた。 「ママも一緒について行きたいの」 母も父の転勤先について行きたいと、申し訳なさそうに告げられた。 それはつまり、私も一緒に引っ越すということで……。 通っている学校はとても気に入っている。大好きな友達だって何人も出来た。それらを捨てて父と母と一緒に見知らぬ土地に引っ越すというのを私は受け入れがたかった。 私はそれまで、自分なりに良い子供をしてきたつもりだ。 成績だってクラスでは上位に入ってる。素行だって悪くない。反抗期なんか無かった。 母を煩わせるのはいけないことだ。母は私を育てるために父と別れてから苦労してきたのだ。その母が選んだ新しい父。 本当は父だなんて思えなかったけれど、愛想良く“子供”をしてきたつもりだ。 そんな私の初めてのわがままに両親はとても驚いたようだったが、今までわがままも言わなかった私の願いだからと、 始めてのわがままを叶えてもらえることになった。 本当の父と暮らす、という形で。 . . . 「...パパごめん」 「何で謝るんだ」 今まで自由気ままに一人暮らしをしてきた父のところに転がり込むのは正直遠慮したかったところだが、まだ17才 の私が一人暮らしするのは“とんでもないこと”というのが母と父の考えだ。 ということで、私はゴールドステージに住んでいる父のところに引っ越すことになった。 あっという間にその日はやって来た。 母と義父を空港で見送り、そのまま父のところにやって来た。 まだ朝早い時間、私はコートのポケットに両手を突っ込んでこれから我が家になる部屋が入っている高いマンションを見上げた。 首が痛くなるほどに上を向いて、ようやく天辺が見える。間抜けに口をぽかんと開けながら 実感の沸かない我が家をぼんやりと眺めていると、背後から「ハァハァ」と荒い息遣いが聞こえて現実に引き戻される。 咄嗟に“変質者”という言葉が頭に浮かび、ヒヤッとした嫌な感覚が全身を走った。 「おはよう!!」 「わっ!」 振り返るよりも先に背後から聞こえた大きな声に、私は変質者が登場したのとは違う意味でヒヤッとして飛び上がった。 パッと振り返ると申し訳なさそうな表情をしている人が居た。 「変質者のくせに爽やかに挨拶してくるなんてどういう了見だ!!」胸の内では強気な言葉が飛び出るが、実際に声にする勇気はない。 まかり間違っておかしな人だった場合、危害を加えられる可能性が無きにしも非ず。 この場合の対処法として、咄嗟に“逃げる”を選択した私は、相手を刺激しないように間合いを取るためにじりじりと後退しようとして、 荒い息の正体が彼ではなく、彼が握っているリードの先にいた犬だと気づいた。 大きくて金色の毛をした二人組み(正確には一人と一匹だけど)は早朝ランニングからの帰りなのか、一人は爽やかに 汗を流し、一匹はハァハァ息を荒げている。 変質者の謎が解け、強張っていた全身の筋肉から力が抜けた。 「すまない...驚かせてしまったね」 「あ、いえ。おはようございます...」 驚くどころではなく身の危険を感じたのだが、ここで「背後でハァハァ言ってるから変質者かと思いましたよ!」なんて言える勇気を持ち合わせてはない。 それどころか正体がわかった今となっては、変質者とは対極に居るような人であることがわかり、勘違いをしてしまったことが申し訳ない。 こんな早朝から変態活動に勤しむのではなく、実際は爽やかな汗を愛犬と一緒に流していたのだから勘違いも甚だしい。申し訳なさすぎる勘違いだ。 変質者ではなかったと結論付けるも、この人たちは一体誰であるかという疑問は消えない。 ただの爽やかランナー二人組みなのだろうか? 爽やかに汗を流していた人を変質者と間違えたこともあり、 バツの悪さを感じながら私は遅ればせながら挨拶した。 爽やかランナーは家具を乗せたトラックをチラリと見てから私ににこりと笑いかけてきた。 「引っ越してきたのかい?」 「はい。あの、今日から...」 人懐こい雰囲気で尋ねられ、私はしどろもどろながらも答えた。 こういう時はお父さんが出てきて話すもんじゃないのか、そう思いながら視線を控えめに巡らせると引越し業者の人と 何か話しこんでいる様子だった。わはは、と笑い声を上げるところを見るに絶対くだらない話をしているに決まってる。 娘が困ってるっていうのに...気の利かない父親だ。 「ん? もしかして山田さんの娘さんかい?」 いつの間にか私の真横に居たらしく、耳元で聞こえた声に驚いて振り向くと、すぐそこに顔があって吃驚した。 反射的に飛び退くとその人が目を丸くさせた。ワン! と爽やかランナーの相棒が楽しそうに吠える。 少し距離を取るとその人が屈みこんでいたことに気付いた。その格好のまま私を見ていたかと思うと、パッと表情を 輝かせて手を叩いた。その突飛な行動に私と爽やかランナーの相棒はびくっと震えた。 「すごい身のこなしだ...!」 感動したようなオーバーなリアクションに、満面の笑み、それに目をきらきら輝かせてこれ以上ないほどに表情を 輝かせて見つめられると急に心臓が大きく脈打った。 まっすぐすぎる視線が恐ろしい光線かなんかだったみたいに、私はその場で硬直した。 「素晴らしい! そし...」 「お、キースくん」 爽やかランナーが何か言おうとしたところで、タイミングが良いのか悪いのか第三者の声が割り込んできた。 フッと現実に引き戻されるような、さっきまで働いていなかった聴覚が急に動き出したかのように周りの音が耳の中に入ってくる。 そのときに肩に何か重い物が乗ってきて私は顔を上げた。見れば、父が私の肩に手を置いている。第三者の声はどうやら父だったようだ。 遅れて先ほどの父の言葉が頭に入ってきた。 キースくん、って言った? 尋ねるように視線を爽やかランナーに向けてみるが通じるわけもなく、にこにこと笑い返されただけだ。 思わずその隣にお行儀よく座っている、相棒を見つめるがもちろん答えは返って来ない。その代わり、しっぽをふりふりしてくれた。 「娘の彩。で、キースくん」 私が相棒と以心伝心を試みているうちにお父さんが私を紹介していたようだ。背中を軽く押されてようやく私は“今”に追いついた。 「やっぱり娘さんだった!」クイズに正解したかのように喜び、にこにこしている“キースくん”が手を差し出してきた。 「よろしく」 何の意味の手なんかなんてすぐに分かるはずだ。それなのに私はジッと差し出された手を観察してから手を差し出した。 「...よろしくおねがいします」 大きい手だ。それにすごく熱い。 ―→ |