紅の衝動←の続きです。





はご機嫌だった。足の運びも軽やかで、鼻歌なんて口ずさんでみたりして廊下を歩いていた。
何故そうまでご機嫌なのかというと、今日は休日だからだ。頭の中で考えるのは今日一日の過ごし方で、珍しく宿題 も出されなかったので今日一日はまるっと開いているのだ。借りていた本を読もうか、とか、少し伸びてきた前髪を切りたい...タカ丸 さんに切ってもらえないだろうか、とか、みんなでお茶をしに行くのもいいな、とか。色々な休日の過ごし方を考えてみる。 予定を立てているだけでも楽しくては小さく笑った。
そんな束の間の幸せに浸っていたの気分をぶち壊すような声が遠くから聞こえてきた。思わず足を止め、その声に耳を 澄ませてみると...

「潮江先輩ー!」
「期限はとっくに切れてますよ!」
「中在家先輩がお怒りです!」

何やら図書委員会が潮江先輩に本の返却を迫っているらしい。
と、理解し、はサーっと血の気が引いていくのを感じた。 確か自分は本を借りていたがあれの返却期限はとっくに過ぎているんじゃないのか? と思い立ったからだ。
それから、 「中在家先輩がお怒りです!」の言葉が頭の中で何度も繰り返される。一度、図書室でお怒りになっていた中在家先輩を見た事があるが 不気味に高笑いし、相手狙って縄標を投げていた。その時の光景は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
あの時、図書室に居たものは皆、中在家先輩は怒らせてはならない。と思った事だろう。もちろんとて、そう思った。 だからこうして青い顔をして中在家先輩の名前に震え上がっているのだ。次に縄標の餌食になるのは...自分ではないか?! 縄標が自分めがけて飛んでくるのを想像して、さっきまで鼻歌を歌っていたことが嘘のように気分は急落した。
生憎、図書委員会が探しているのは潮江先輩だけのようだ。だが、自分の姿を見た図書委員会が「そういえばあの子も貸出し期間 がとっくに過ぎていたなぁ」と思い出さないとは限らない。なので、段々と近づいてくる声から逃げるべく、は今 来た道を引き返そうとした。
だが、くるりと回転して一歩踏み出すと何かにぶつかった。
顔を上げれば、そこには天敵・ 鉢屋三郎が立っていた。
にやりと笑った天敵に、は背筋を冷たいものが走っていくのを感じた。それからすぐに頭から指令が出た。 逃げろ!!
足を踏み出し、急ぎ三郎から逃げようとするも、そんなの行動はお見通しだと三郎はの襟首を掴んだ。

「ぐえ」

苦しそうな声を上げたが止まると、三郎はの腰に手を回し自分の胸元に引き寄せた。

「ギョエー...むぐっ」

三郎の突飛な行動に悲鳴...と言うより、妙な叫び声を上げたの口を三郎は手で素早く塞ぐ。そして、「んー!」と言葉に ならない声で抗議するにささやいた。

「いいのか? 図書委員会に見つかる事になるぞ」
「!!」
「よし、静かに出来るな?」

三郎の問いにこくこくと何度も頷くを確認し、三郎は手を離してやった。新鮮な空気を吸っているのかは何度か深呼吸 を繰り返している。と、そこで未だにがぴったりと自分の胸にくっついっていることに気付いた三郎はカーっと顔に血が 上った。思わずを突き飛ばす。まさか突き飛ばされるとは思っていなかったは壁に頭を打った。「いてっ!」と声を 上げて恨みがましい視線を三郎にやると何やら、耳を赤くして手で口元を覆っている。
何か知らんがこの隙に逃げよう、とが足を踏み出すも手首を握られ、それは叶わなかった。

「なに逃げようとしてる」

冷たい視線で睨まれ、は縮こまった。図書委員会に見つかるのと鉢屋三郎に見つかるの、どちらがマシなのだろうか、 と考えて見るも、もしかしたら図書委員に見つかる方がマシかもしれない、と思ってしまうほどには何かにつけてちょっかい を出してくる鉢屋三郎のことが苦手だった。縮こまったを見て三郎が何か言おうと口を開いたが、言葉にされることは なく口は閉じられた。代わりに細い息が吐き出された。

「...お前、図書室で借りた本を返してないだろう」

ややあって三郎が口火を切った。が俯いていた顔を上げると三郎の手には貸出しカードが握られていた。と書かれた 図書カードは間違いなく自分のものだ。何故、図書委員でもない鉢屋三郎がそれを持っているのか、と考えて鉢屋三郎と 同じ顔をしている(正確には鉢屋三郎が同じ顔にしているのだが)不破雷蔵の顔を思い出した。


そういえばあの人は図書委員だった。現に今も図書委員の面々と取り立て屋紛いに潮江文次郎に中在家先輩が怒っている から本を早く返せと、脅しているじゃないか!(自分も本の返却を忘れていたので同じ同士としては潮江文次郎に仲間意識 が芽生えてきていた。)つまり不破雷蔵と鉢屋三郎はグルで、自分と潮江文次郎を中在家長次に引き渡すつもりでないのか?! それを証拠に鉢屋三郎はにやにや笑っているじゃないか!(一人、何かを想像して焦っているらしいの姿が面白くて 三郎は笑ったわけだが、日頃の行いの所為でには悪い方にしか取られなかった。)


怯えた様子で顔を青くしているを尻目に三郎は続ける。

「期限を七日も過ぎているじゃないか!」

図書カードを眺めながら三郎がちらりとを見て言う。その口調は恐々としたもので、信じられない! と言っているよう だった。どことなく怯えている様子の三郎に、そんな姿を見たことが無いは驚いた。いつだってにやにや笑っているか 不機嫌か、真顔か。いや、時々耳を赤くして挙動不審になるときもあるが、怯えた様子なんて見た事が無い。だからこそ、 は不安になった。

「怖いもの知らずだな...。俺でも七日も返さないなんて馬鹿はしない...」

深刻な顔をしてを見つめる三郎の表情に浮かんでいるのは同情で、の鼓動は早くなった。七日も返さなくては一体どう なるのか、怯えで瞳を潤ませながら恐々と質問してみる。

「...七日も期限が過ぎていたらどうなるんですか?」

鉢屋三郎が恐れるのだからきっとひどい仕打ちをされるに決まっている。普段、三郎によってひどい仕打ちを受けているが 、そんなものではないほどにひどい事をされるのだろうか? そしてそのひどい仕打ちとは一体どんなことなのだろうか...。 想像すればするほどに恐怖は増していく。
ごくり、唾を飲み込み、いつもであれば自分からは絶対に天敵に近づこうとし ないだが恐怖心でいっぱいでそれどころではなく、自ら天敵・鉢屋三郎に近づいた。
涙目で下から三郎の顔を覗き込むと、三郎は耳を赤くしてからプイッとそっぽを向いた。

「...そんなこと、俺の口からはとてもじゃないが言えない」

口元を押さえつつ、そっぽを向いてそう言った三郎の姿に信憑性を感じたは今にも倒れそうなほどに衝撃を受けた。
鉢屋三郎がここまで恐れるのだからよっぽどの事なのだとはたくましい想像力で考えてしまったのだ。三郎が耳を赤くし、 そっぽを向き、口元を隠したのには別の理由があったのだががその別の理由について分かるわけが無い。

「だが、あんな目に後輩が合うのは俺も心苦しい...」

顔面蒼白なを不憫な者を見る目で三郎が見つめる。未だかつてこのように優しい目(優しいとはまた違うのだが)で見られた 事の無いは恐怖とは違う意味で涙しそうになった。

「そこでだ。俺が代わりにこの本を返して来てやろう」
「え!?」

まさかの三郎の申し出には飛び上がった。驚きに目を見開かせは叫び声を上げた。「いいんですか?!」「あぁ」 姿を見ただけで嫌な汗をかくほどに天敵・鉢屋三郎のことを苦手に思ってきたが、今見る鉢屋三郎の姿は後光がさしている ように見える。恐ろしい目に合うかもしれないと言うのに、自らその役を引き受けると三郎は言っているのだ。
天敵から救世主へと三郎の見解がの中で変わろうとした。だが、いたく感動した様子のを見、にやりと唇を歪めた三郎 の顔を見ての背筋にひやりとした感覚が走った。

「だが、交換条件だ」





そ、そんな!!








(20100627)